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旅行記 ・ポンペイ遺跡 − イタリア(10) 2014.07
ポンペイ遺跡
フォロ(公共広場)から見るジュピター(ユピテル)神殿と凱旋門(名誉アーチ)、背後にヴェスヴィオ火山 
 イタリア共和国の南部の都市ナポリ近郊にあった古代都市ポンペイ。ローマ人の余暇地として繁栄したポンペイの最盛期の人口は約2万人だったといわれます。西暦79年、ヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれ、18世紀の発掘によって時間が止まったままの古代都市が姿を現したのですから、とても貴重で興味深い遺跡に違いありません。当時の人たちが現代とそう変わらない生活をしていたに違いないという気づきは驚きでした。日本で言えば弥生時代なのです。そう気づかせたのは、地表にむき出しになった鉛の水道管、車道と歩道が区別されたストリート、そこに残る馬車の轍(わがち)であり、石の製粉用挽き臼や焼き窯が残る近代的なパン工房、現代にも通用する日帰り公衆浴場施設であり、そして、娼館の雰囲気などでした。
 マリーナ門
マリーナ門
マリーナ門は、ポンペイへの主要な入口になっている門で、ポンペイの町の西にあり、海に向かっていることが名前の由来になっています。門はアーチ型で、大きい方が荷車用、もう一方が歩行者用でした。この門を通って、海辺の町から多くの商品がポンペイの町に運ばれました。現在、観光もこのマリーナ門から入ります。
 
フォロとバシリカ
ポンペイ遺跡の中心フォロ(奥にジュピター神殿、左にアポロ神殿、右にヴェスパシアヌス神殿、背後にヴェスヴィオ火山)
マリーナ門を入って坂を上がり切ると右手(南)に『バジリカ』(写真下)、そのちょっと奥の左手(北)に『フォロ』(写真上)と呼ばれる広場があります。フェロ(公共広場)は、ポンペイに限らず古代ローマの街には必ずあった多目的広場で、紀元前2〜1世紀に主に商業活動に用いられました。一方、バジリカは、裁判や通商会議の場、集会所等公的活動に使用された施設でした。
バシリカの遺構
アポロ神殿
アポロ(ゼウス)神殿跡(ディアナの像はレプリカ)
フォロの西側に隣接しているのが『アポロ神殿』。したがって、マリーナ門をくぐってすぐ左手にあります。紀元前6世紀に建立され、紀元前2世紀に現在の姿になったと推定されています。左側にある『ディアナ』と 右側にある『矢を射るアポロ』はいずれも複製で、本物はナポリ国立考古学博物館にあるそうです。
アポロ神殿跡(矢を射るアポロ像はレプリカ) 
紀元前6〜5世紀ごろは、ギリシア人の影響を受けていたこともあって、ギリシャ神話の神アポロ(ゼウス)がポンペイの守護神として祀られていた。その後のローマとのかかわりで徐々にアポロ信仰が廃れ、ローマ神話の主神であるユピテル(ジュピター)がこれに取って代わり、フォーロ(公共広場)の最も重要な神殿がジュピターに捧げられるようになりました。
アポロ神殿の基盤部分
中央部にあった神殿本体は、基盤部分を除き遺されていませんが、周囲の48本のイオニア式柱廊は良好な状態で遺されています。 上の写真の白っぽい柱は大理石で造られたの柱で、射す影から日時計の役割を持っており、その後ろの高い壇は聖像安置室と考えられています。
アポロ神殿(想像図)
 
 エウマキアの建物
フォロの中央東側に面して立つ円柱
フォロ(公共広場)の中央部東側に面して円柱の柱が立っていて(写真上)、その右に小さな四角い門があります(写真下)。『エウマキア館』の入口です。碑文によれば、エウマキア館は羊毛職人組合の所有で、毛織物業で財を成した巫女(女性神官)のエウマキアが、ローマ初代皇帝アウグストゥスへの忠誠を誓うためにて献納したものだそうです。
エウマキア館への入口
エウマキアの建物は、布地の保管や陳列に使われ、また売買交渉にも使われたそうです。左右の門柱の大理石には繊細なアカンサス唐草のレリーフが施されています(写真下)。当時このような精巧な細工がなされていたのは驚きです。保護のため現在は写真にあるように、プラスチック製の透明カバーが被せてあります。
門柱の唐草レリーフ
マルケム(市場)
市場横に立ち並ぶ両替屋
ジュピター(ユピテル)神殿の東側に見える建物は、ギリシャ語で『マルケム』と呼ばれる『市場』だったところです。 その名の通りここでは市場が開かれ賑やかな界隈だったのでしょう。かまぼこ状の模様がある建物(写真上)は両替屋で、色々な地方のコインが発掘されているそうです。外国人はここで両替を済ませて市場に入って行って買い物をしたのでしょう。
市場に残る12本の石柱
市場の真ん中には、『ストーンサークル』を彷彿とさせる12本の円柱が残されて理ます。この石柱は、その上に木製のいけす(水槽)が据えられていた基礎だそうです。いけすは円形の丸いとんがり屋根で覆われており、それを取り巻く柱廊には多くの店が出されていたことでしょう。この付近では、魚の小骨や鱗が多く発見されているそうです。
 フロントーネの遺跡
魚の描かれたフレスコ画 
マルケム(市場)のフォロ側にある『フロントーネの遺跡』には、灰に埋もれた人物の石膏像も展示され、壁には多くのフレスコ画が描かれています。この壁は、『フロントーネの家』と呼ばれる裕福な家の食堂の内部だったそうです。青魚が描かれていますが(写真上)、これはマルケム(市場)で売り買いされた商品を描いたものでしょうか。
馬の描かれたフレスコ画 
魚のほか、馬に乗る人の絵や人物などが描かれています。今から2000年前に描かれた絵がはっきりとして残っているのは、フレスコという方法で描かれたからでしょう。フレスコは、まず壁に漆喰(しっくい)を塗り、漆喰が生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で絵を描くやり方で、やり直しがきかないため高度な技術が必要とされましたが、保存に有利な方法でした。
足踏みで洗濯をしている様子 
そして、ポンペイの壁画の基調になっている赤色は、『ポンペイの赤』(ポンペイ・レッド)と呼ばれ、鉛を使った赤(日本でいう鉛丹)でした。上の写真の絵に描かれているのは、奴隷たちが足踏みで洗濯をしている様子のようです。ローマ人の洗濯様式を知ることがでます。下の写真の絵は、鳥に乗った女性でしょうか。ファンタジーな雰囲気が漂っています。
鳥に乗った女性?  ファンタジーな壁画です。
アッボンダンツァ通り
観光客が行き交うアッボンダンツァ通り
フォロ(公共広場)、バシリカからなだらかに下りながらまっすぐ東に延びるポンペイのメインストリートが『アッボンダンツァ通り』(噴水のある通り)です。ポンペイの繁華街で、通りは舗装され、車道ならぬ馬車道と一段高い歩道にきちんと分かれていました。通りに面しては、たくさんの商店が軒を連ねていました。途中に、通りの名前の由来になっている共同水飲み場があります。
通りの名前の由来にもなっている共同水飲み場
公衆浴場
浴場へいくの柱廊
ポンペイには、3つの公共浴場と3つの個人経営の浴場があたそうです。見学したのは公共浴場の一つである『フォロの浴場』です。今風の『ゴージャスなスーパー銭湯』を彷彿とさせるゴージャスな浴場です。入浴は、脱衣室 → 微温浴室(テピダリウム)→高温浴室(カルダリウム)→冷水浴室(フリギダリウム)という順序で入浴していました。
テピダリウム(微温浴室) 
テピダリウム(微温浴室)は、入浴前の準備をする部屋として用いられていた、適度な微温に暖められたオープン・スペースです。ポンペイの浴場のテピダリウムは床がモザイクで、アーチ形天井は漆喰で装飾され、赤い壁に絵画がかけられていました。微温ですから長湯も可能だったわけで、会話を楽しみながらまた壁の彫像を眺めながら、ゆっくりくつろぐことのできる空間でした。
アトラスやテラモーンの像で区切られた服置き場
ポンペイの浴場では、カルダリウムに入る入浴者がこのテピダリウムを脱衣室として使うこともありました。そこで、壁面が小さく仕切られていて、そこに脱いだ衣服を置くことがでるようになっていました。壁から張り出したアトラスやテラモーンの像が衣服を置く空間を仕切っていました。
カルダリウム(高温浴室、サウナ)
上の写真のカルダリウム(高温浴室)は、床暖房システムの一種であるハイポコースト( 柱を使って床面を地面から持ち上げ、壁の中にも空間を残しておき、炉からの熱気と煙を床下や壁に送り込み屋根付近の送管で排気する方式の古代ローマのセントラルヒーティングシステム)で熱された非常に高温多湿の部屋。いわゆるサウナでした。
カルダリウム(サウナ)にある冷噴水 
 カリダリウムには丸い冷噴水(写真上)が置いてありました。これは、火照った体を冷やすために冷水が出てくる噴水だったようです。この豪華な噴水の鉢の縁に彫ってあるのは、これを寄贈した人の名前と選挙の売込文だそうです。当時、ポンペイではすでに議会政治が行われていたことがわかります。
カルダリウム(高温浴室、大理石の温水浴槽)
上の写真はカリダリウム(高温浴室)でも、浴槽にお湯を張った今日の日本で一般的なお風呂。浴槽は大理石でできています。熱いお湯を張った湯船にゆったりと浸かるのが習慣になっている日本人には、ほっとさせられる浴槽ですが、公衆浴場の浴槽としては小さいですから、サウナの方の利用が多かったのでしょう。
フリギダリウム(冷水浴槽) 
フリギダリウム(冷水浴槽)は、カリダリウム(高温浴室)で熱い風呂を楽しんだ後に入る冷水の浴槽がある部屋、いわゆる『水風呂』です。カルダリウムとテピダリウムは皮膚の毛穴を広げるので、その後、冷たい水に入ることで汗腺を閉じます。脱衣室の奥にある設置されていることから、隣接の運動場で汗をかいた後や夏場には冷水浴が優先したのかも知れません。
車の轍や水道管
車道と歩道が区別されたストリート。共同水汲み場もあります。 
上の写真は住宅街を走るストリートです。車道(といっても馬車道)と歩道が整然と分けられています。車道は石が引かれ、何回も何回も同寸法の馬車が通るために石に深い轍(わだち)が出来ています(写真下)。交通が頻繁だったことを伺わせます。車道には、飛び石が置かれているところもあり、それが横断歩道だったのでしょう。
車(馬車)の轍(わだち)が見えます
地表に露出した水道管からすでに当時水道管を使った給水システムがあったことがわかります。ポンペイには、公共浴場に給水する水道と、共同水汲み場に給水する水道と富裕層の家庭に給水する3つの系統の水道システムが確立されていました。住宅街の道路に鉛の水道管が露出している下の写真は、富裕層の家庭に給水をしていた水道でしょう。
住宅街の道路に露出した鉛の水道管。 
ルパナーレ(娼館)
二階建てのルパナーレ(娼館)
ポンペイには百軒から百数十軒の居酒屋(Bar、バール)があり、20件から20数件のルパナーレ(娼館)があったそうです。共同浴場で一風呂浴びて外に出ると、居酒屋がワインをカウンタに並べています。ほろ酔い加減で帰宅の途に就いたものの、二階の窓越しに身を乗り出した女性に声をかけられてしまうのでした・・・。
石のベッド
ここのルパナーレの壁に描かれているフレスコ画は、保存状態も大変よく2000年以上前の風俗がよくわかります。石のベッドはいかにも硬そうですが、柔らかいマットが敷かれていたことは壁画から伺い知れます。女性がブラジャーらしきものを胸に着用しているのも興味深いです。
娼館の壁画
 『現代ではポンペイは快楽の都市とも呼ばれる。ただし、この町は商業も盛んな港湾都市である一方で、火山噴火まではぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業はワイン醸造だったことが伺える。』(ポンペイ - Wikipediaより)。当時からワインが製造され、飲まれていたのです。
娼館の壁画
 
パン屋
驚くほど近代的なシステムのパン屋跡
古代ローマの街に欠かせないもの一つがパン屋でした。ポンペイには30数軒のパン屋があったそうです。この『モデストのパン屋』はすべてが機能的にできた、驚くほど近代的システムのパン屋の跡で、溶岩石でできた挽き臼やパンをこねる台、焼き釜炉など当時使われていた設備が完全に保存さています。
パン焼き釜炉跡
2つの溶岩石でできた製粉用の挽き臼は、一方の石がもう一方の石にはめ込まれて動くようになっています。挽き臼は四角の穴に木の棒を差し込んで回します。上のホッパーに入れた小麦が、下から粉になって出るもので、木の棒を水平に回す作業は、昔は奴隷が腕の力で行っていましたが、次第にロバを使って行うようになりました。
製粉用の挽き臼
焼き釜の中から81個の炭化したパンが発見されたそうです。パンは丸い形をしており、切れ目ごとに盛り上がっていたといわれます。ポンペイでは、普通の商店でパンやフォカッチャ(ピザのような平たいパン)を販売していたほか、行商に販売を任せることもあったことが文献で分かっているそうです。
モデストのパン屋の復元図
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