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旅行記 ・沖永良部島の南洲翁史跡 − 鹿児島県大島郡 2017.07.19
南洲翁上陸の地
西郷隆盛上陸の地記念碑(和泊町伊延港)
薩摩藩主島津久光の逆鱗に触れた西郷隆盛(南洲翁)は、最初徳之島に流されますが、二ヶ月余り徳之島に滞島のあと、今度は沖永良部島へ島送りとなりました。西郷は、沖永良部島における1年6ヶ月の牢屋生活の中で『敬天愛人』の思想を完成させたといわれます。いわば『敬天愛人』発祥地である沖永良部島の南洲翁史跡を訪ねました。
西郷隆盛上陸の地記念碑
西郷隆盛は、文久2年(1862年)閏8月16日、沖永良部島西岸の伊延港に到着しました。しかし、沖永良部島には西郷を囲う牢屋がなかったため、牢ができるまでの2日間船牢で過ごしました。牢が出来上がって迎えに来た代官黒葛原源助や付役福山清蔵、間切横目土持政照らが乗馬をすすめました。
熟したアダンの実
しかし、西郷は『いや私は牢に入る身、もう二度と土を踏むことがないと思いますのでそうか和泊ま歩かせてください。』と言って牢のある和泊まで一里(4キロ)を歩きました。西郷隆盛上陸の地には、記念碑が建てられています。碑の周囲にはアダンの実が真っ赤に熟れていて、いかにも奄美諸島の島らしい雰囲気を醸し出していました。
 
 南洲翁謫居の地
西郷隆盛流謫の地に再現された牢屋
和泊に着くと、酒肴の準備がしてありましたが、西郷はそれを固辞し、自ら牢屋に入り、牢番に『錠はおろしたか』といわれたそうです。牢屋の広さは一間半角(二坪余り)で、四寸角材の格子囲みで戸もなければ壁もなく、牢内には便所・小炉・板屏風があるだけで甚だ狭隘なものでした。
静座して沈思黙想中の西郷隆盛
西郷南洲翁謫居の地に牢屋が再現して建てられていますが、沖永良部島といえば、本土よりも沖縄に近く、高温多湿で非常に雨量も多い島です。吹きざらし、雨ざらしに等しい牢屋での生活は、まさに西郷に死ねよと言わんばかりの処罰であったことがうかがい知れます。牢中の西郷は、湯水を求めず、煙草を断ち、朝だけ牢番に飯を炊かせ、昼と夜の二食は、冷飯をお湯で温めて食し、牢中に静座して、読書、沈思黙想の毎日を過しました。
『敬天愛人』発祥地の記念碑
『敬天愛人』発祥地の記念碑(写真上)に以下のようにあります。『西郷隆盛は文久2年(1862年)沖永良部島へ流罪となり、1年6ヶ月過酷な牢屋生活を送った。その間操家の蔵書や持参した書籍で学問に励み、精神を練磨して天地自然の理を悟り、敬天愛人の大思想を完成させた。ここに本会創立25周年を記念してこの碑を建立する。平成15年2月16日。』
 南洲神社
南洲神社(和泊町手々知名)
南洲神社は、西郷南洲翁を慕う島民たちによって明治35年(1903年)に和泊(和泊町手々知名)に建立されました。建てられた場所は『前問殿内屋敷跡』という史跡内で、史跡の説明板につぎのようにあります。『明治13年〜15年、沖永良部島が12区、6区分された時の戸長、町田実矩(町田精男の先祖)生誕の地である。
南洲神社説明板
実矩は操坦勁らと共に流謫中の西郷隆盛から教育を受けた少年20人の中の一人である。父左右悦は、与人沖蘇延良らと共に、西郷の談話の相手をつとめた。明治34年、時の村長、坂本元明から、西郷神社建設用地として最適地であるので譲ってほしいとの要請があり村へ譲渡した。自らは後原の砂地へ転居した。
南洲神社(右端に南洲文庫跡の碑も見えます)
屋敷内には明治35年に南洲神社が、同38年には招魂社が同43年に南洲文庫が建設された。以降昭和43年には手々知名字公民館が、平成4年には沖元綱翁顕彰胸像が建設され、日曜学校の場として、地域住民の学び、ふれあいの場等として広く活用されている。平成19年12月 手々知名字』
猟犬をつれた西郷像
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