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旅行記 ・水月ホテル鴎外荘 − 東京都台東区 2016.09.23
 
水月ホテル鴎外荘
水月ホテル鴎外荘(右手は上野動物園)
ホテルの歴史 上野公園の西郷隆盛像から不忍池の東岸に沿う道を600 〜 700メートル奥に進んだところに、普通の宿に明治の文豪・森鴎外の旧居と天然温泉を兼ね備えたホテルがあります。『水月ホテル鴎外荘』です。前身の『水月旅館』がオープンしたのが1943年(昭和18年)。隣りに鴎外の旧居がありました。
水月ホテル鴎外荘・玄関
鴎外が28歳から29歳にかけての約1年半を過ごし、あの名作『舞姫』を執筆した由緒ある旧居でしたが、次々と住み手が変わり、ついには空き家となって崩れてしまいかねない状態に。その様子を目にしていた水月旅館の創業者が一大決心、大金をかけて購入しました。1946年(昭和21年)のことでした。
水月ホテル鴎外荘・玄関
このホテルの近くには温泉銭湯があったそうです。そこで、掘れば温泉が出るかも知れないと創業者は考えました。掘ってみると予測が的中、1961年(昭和36年)、みごと地下200メートルから天然温泉が沸き出たのです。その後、2000年(平成12年)に都内第一号天然温泉として登録がなされました。ここに宿と鴎外の旧居と天然温泉を兼ね備えたホテルが誕生しました。
水月ホテル鴎外荘・フロント
ホテルの概要 現在のホテルの概要は以下の通り。客室:和室39室、洋室85室/宿泊人数:320名/宴会場:5カ所/会議室:2カ所/大浴場/2カ所(大理石風呂、古代檜漆塗り風呂)レストラン:60席/その他施設:カフェテラス、茶室、カラオケルーム2室、お土産コーナー、ランドリーコーナー。
天然鴎外温泉入口
水月ホテル鴎外荘の楽しみ方 上野公園は、東京国立博物館、国立西洋美術館、東京都美術館、東京藝術大学美術館、上野の森美術館、国立科学博物館と、日本でも有数のスポットです。美術館、博物館を鑑賞後、昼食は、ホテル内の京懐石レストラ『沙羅の木』でコースランチを堪能。
京料理レストラン『沙羅の木』
昼食後は、谷中、根津、千駄木界隈へ散策へ出かけましょう。神社仏閣や旧跡がさくさん点在し、昔ながらの商店街も楽しめます。ディナーは再び『沙羅の木』で京懐石をゆっくり楽しんで天然鴎外温泉へ。宴会場、各種会合やコンサートの会場として鴎外居住跡の『舞姫の間』、少人数の集まりや会食には『於母影の間』、『蔵の間』が利用できます。
コースランチを戴き中(沙羅の木)
 森鴎外住居の跡
森鴎外居住の跡の案内板
森鴎外 1862年(文久2年)〜1922年(大正11年)。日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。医学博士・文学博士。本名は、森 林太郎。石見国鹿足郡津和野町町田村(現島根県津和野町)で代々津和野藩の典医をつとめる森家の跡継ぎとして誕生。
森鴎外居住跡入口
幼い頃から論語や孟子、オランダ語などを学び、藩校・養老館では四書五経を復読し、9歳で15歳相当の学力を持っていたといわれる。1873年(明治6年)、入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学。1881年(明治14年)19歳で本科を卒業。
森鴎外居住跡・玄関
大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごし、帰国後、訳詩編『於母影』、小説『舞姫』、翻訳『即興詩人』を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に『ヰタ・セクスアリス』『雁』などを発表。
玄関より庭を見る
乃木希典の殉死に影響されて『興津弥五右衛門の遺書』を発表後、『阿部一族』『高瀬舟』など歴史小説や史伝『澁江抽斎』等も執筆した。晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現日本芸術院)初代院長なども歴任した。(以上、森鴎外 - Wikipedia より)
鯉が泳ぐ庭
1889年(明治22年)3月、海軍中将赤松則良の娘の登志子と結婚し、赤松家の持家であった現・水月ホテル鴎外荘の旧邸に根岸から移住してきました。同年8月『国民之友』に訳詩編『於母影』を発表。 1890年1月処女作の舞姫を発表。同年9月に長男・於菟誕生するもまもなく登志子と離婚し、10月には本郷駒込千駄木町57に居住を移しました。
 
森鴎外居住跡の佇まい
 
舞姫の間
復元された玄関
舞姫の間 門をくぐり、2002年に復元された玄関から入ると、和室『舞姫の間』、洋風の『於母影(おもかげ)の間』と『蔵の間』の3室を見学できます。『舞姫の間』は、かつて鴎外が『舞姫』を執筆した日本間は『舞姫の間』と名付けられ、現在はお食事処、宴会場、各種会合やコンサートの会場として利用されています。
舞姫の間
35畳あって、襖(ふすま)で3室に仕切れる広さがあります。部屋には鴎外の写真や遺書、肉筆の手紙などが飾ってあります。当時のままの建物で庭に面した廊下の硝子戸のガラスは歪みガラスで、庭の景色は歪んで見えます。釘を一本も使用していない建物で年季が入って雨漏りもあるそうですが、ホテルスタッフの尽力によって当時のままの美しさが保たれています。
舞姫の間
於母影の間
於母影の間
於母影(おもかげ)の間 少人数で利用できる特別室として『於母影の間』と『蔵の間』があります。『於母影の間』は、文学サロンの趣を今に残す優雅なダイニング(洋間、テーブル席)でで、12名まで利用できます。粋な坪庭を眺めながら、家族や友達などで和やかな時間を過ごすのに利用できます。
於母影の間
部屋の名は、森鴎外が落合直文・市村讚次郎・井上通泰・三木竹二・小金井喜美子と結成した新声社の同人によるゲーテ、ハイネ、バイロンなどの西欧抒情詩の訳詞集で、1889年(明治22)徳富蘇峰が主筆をつとめる民友社の雑誌『国民之友』の付録として発表された『於母影』に由来します。『於母影』は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えました。
於母影の間
小説『舞姫』 主人公、太田豊太郎はエリート官吏である。彼はドイツ留学中に舞姫エリスと出会い、二人で暮らし始める。しかし、そのことによって周囲から中傷され官職を辞することになる。やがて、豊太郎は、前途を案じる友人からの勧めに応じて、エリスとの別れを決意。事情を知り発狂した身重のエリスを残し、豊太郎は日本へと帰国する。
於母影の間
蔵の間
蔵の間
蔵の間 当時の鉄扉の蔵を利用しているのでその名があります。土蔵造りの書斎風の部屋。当時のまま残る柱や梁の木目をそのまま活かした日本の伝統的構法に、洋風のテーブルや椅子を合わせたインテリアは、文明開化の香り漂うモダンな雰囲気を醸しだしています。6名までご利用できます。日常を忘れてを明治の浪漫を満喫できます。
蔵の間
三人冗語 舞姫の間に、『三人冗語』の三人と題する写真が飾ってありました。『三人冗語』とは、森?外主宰の雑誌『めさまし草』(第3〜7号)(1896年3月〜7月)において、鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨の3人が行った作品合評。頭取(鴎外)による作品紹介に続いて、『ひいき』『さし出』などの変名の人物が批評する形式をとった、最初の匿名座談会形式の文芸時評。
『三人冗語』の三人(左から鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨)
当時の批評界の権威として、多くの作品を辛辣に批判したなかで、樋口一葉の『たけくらべ』に対する批評(第4号)は、この小説を絶賛し、彼女の文名を一躍高めたことで有名。緑雨(1868年〜1904年)は、樋口一葉の死後、一葉の母と妹の世話をしてやり、一葉の遺稿を整理しながら借金取りを撃退し、一葉全集の出版のために奔走したことで知られています。
『森鴎外と鴎外居住の跡』の看板
【参考サイト】 
(1)文豪・森鴎外ゆかりの宿 水月ホテル鴎外荘
(2)森鴎外 - Wikipedia
 
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