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旅行記 ・中津城を訪ねて − 大分県中津市  2014.01.01
中津城
模擬天守と復興櫓
中津城 中津城は、豊臣秀吉の九州征伐における功労者として、豊前国の6郡およそ12万石を賜った黒田孝高(官兵衛)が1588年(天正16年)に築城を始め、1621年(元和7年)に細川忠興(ただおき)によって完成をみた城。その後、小笠原と藩主が代わり、1717(享保2年)年には奥平氏が入城し、明治維新まで奥平氏の居城となりました。
復元された水掘と石垣
中津城に天守閣が存在したかは定かではなく、現在のものは、1964年(昭和39年)に旧藩主奥平氏の子孫が市民の寄附を受けて観光開発を目的に建てた模擬天守閣で、復興櫓とともに中津市のシンボルとして親しまれています。模擬天守は、外観5重内部5階の鉄筋コンクリート構造で、奥平家歴代当主の甲冑など、ゆかりの品々などが展示されています。
石垣の継ぎ目(向かって右が黒田氏、左が細川氏の普請による石垣)
石垣の継ぎ目 関ヶ原の合戦で徳川方についた黒田氏は、1600年(慶長5年)、軍功により52万石で筑前国名島(現福岡市)に転封となり、中津城の築城は中断されます。同年、替わって細川忠興が丹後国宮津から39万石余で入封し築城が再開されました。黒田時代に築かれた石垣に細川氏が継いだ石垣の境を見ることができます。
奥平神社前で披露される舞
現在、模擬天守などの建物(奥平神社は除く)が、埼玉県で福祉事業を営む(株)千雅(ちが)の所有(土地や展示物は奥平家の子孫が代表取締役を務める中津勧業が有料で貸与)となっておりますが、中津城は、従来通り観光施設(奥平家歴史資料館)として一般公開されています。
中津大神宮参詣者の列
三斎池(さんさいいけ) 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦などの功によって黒田長政は筑前52万石となり、如水(官兵衛)とともに中津を去った。黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後の国東(くにさき)・速見(はやみ)の二郡の領主として入部した。忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元(おきもと)を小倉城においた。慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更した。元和6年(1620年)家督を忠利(忠興の三男)に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。
三斎池から模擬天守を望む
翌7年三斎は中津城に移り、中津城や城下町の整備を、黒田氏の後を引き継いで行った。この時、城内の用水不足を補うために、城内への水道工事を行った。工事は、山国川(やまくにがわ)の大井出堰(三口)から水道を城内まで引く大工事であった。その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水として使用された。忠興の号”三斎”の名を冠して『三斎池』という。現在は、中津上水道を引いている。中津市、中津の郷土史を語る会。〜現地案内板から
 きいじんじゃ
城井神社
中津城内に城井神社と扇城神社が鎮座しています
城井神社(きいじんじゃ) 城井谷城主・宇都宮家は信房(のぶふさ)より鎮房(しげふさ)に至る16代およそ 400年の間、豊前国守(ぶぜんのくにかみ)として徳政を布いた。天正15年(1587年)5月豊臣秀吉は九州平定にあたり豊前六郡を黒田孝高(官兵衛)に、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治(12万石)移封の御証判を与えた。鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。
宇都宮鎮房を祀る城井神社
そこで、秀吉は孝高と謀り所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。天正16年(1588年)4月20日鎮房は中津城に招かれ祝宴の席で謀殺された。天正19年長政は深く感ずる処があって城内守護紀府(城井)大明神として鎮房を祀り、福岡移封後はその地に警固大明神として祀った。宝永2年(1705年)小笠原長円(ながのぶ)は小社を建て城井大権現として崇(あが)め、その後幾度かの変遷の後城井神社として改められた。中津市、中津の郷土史を語る会。〜現地案内板から
せんじょうじんじゃ
扇城神社

宇都宮鎮房公従臣四十五柱
境内末社として従臣四十五柱を祀る扇城神社
扇城神社(せんじょうじんじゃ) 天正16年4(1688年)宇都宮鎮房公従臣は、庶子誉上人(鎮房公と静の方の間に生まれた)の合元寺(ごうがんじ)に止め置かれ、鎮房公は小姓を伴い中津城内の館で謀殺されました。異変を知った家臣群は次々に城中に駆け入り、龍が荒れるように戦いましたが、ことごとく討死しそれぞれに埋葬されました。扇城神社は、城井神社再興後、大正9年(1920年)4月20日、鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀ったものです。
西南役中津隊之碑
西南役中津隊之碑(中津城内)
西南の役 中津隊 中津隊(なかつたい)は、西南戦争に西郷軍側に呼応した不平士族の部隊。明治10年(1877年)現在の大分県中津市において増田宋太郎を中心とした旧中津藩士によって結成された。中津にて蜂起し、中津城の御殿に放火し焼失させた。後、大分市を目指し進軍、現在の府内城におかれていた県庁の攻略を目指すが失敗した。その後、県警などの追討を逃れながら熊本県入りし西郷軍本隊に合流している。
西南之役中津隊百年祭碑(中津城内)
西南戦争末期、和田峠の戦いで西郷軍が破れ、西郷隆盛が解軍の令を出したあとも、増田宋太郎ほか十数名は西郷軍と最後まで行動を共にし、鹿児島市で悉く戦死した。西郷軍に呼応し決起した士族隊としては最北かつもっとも西郷軍本隊から離れた地での蜂起である。しかし、人数が少なかったため中津隊単独での戦果は少ない。しかし、彼らの影響により旧豊前国一帯で大一揆が発生することとなった。(以上、中津隊 - Wikipediaより)
 レポート ・中津城   合元寺(赤壁寺)
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