レポート  ・中津城   
 
− 中津城 −
1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐における功労者として、豊前国の6郡およそ12万石を賜った黒田官兵衛(黒田孝高)は、当初、馬ヶ岳城に入城しましたが、翌1588年、周防灘にそそぎでる山国川(やまくにがわ)の河口の要害に中津城の築城を始めました。
 
今年(2014年)のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の放映が始まりました。官兵衛のゆかりの地として初めて中津城を訪ねたのですが、そこで知ったのは、この城の幾度となく繰り返された転封・移封の歴史でした。
 
 1.歴史
 
築城を始めたものの、入封を歓迎しない在地勢力との紛争などのため工事は進みません。例えば、1588年には、官兵衛が熊本でおきた一揆鎮圧のため中津城を留守にしている間に、嫡男の長政が、攻めあぐねていた宇都宮鎮房(しげふさ)(城井鎮房)を中津城内に招き入れ、宴(うたげ)半ばに謀殺するという争いが起きています。
 
関ヶ原の合戦で徳川方についた黒田氏は、1600年(慶長5年)長政の軍功により52万石で筑前国名島(現福岡市)に転封。中津城の築城は中断されました。
 
同年、替わって細川忠興(ただおき)が丹後国宮津から39万石余で入封し、築城が再開されます。現在の中津城の石垣に、黒田氏によって築かれた石垣に細川氏が継いだ石垣の境を見ることができます。
 
1602年(慶長7年)、細川忠興は領内の統治がやり易い小倉(現北九州市)に城を築いて居城とし、修築中の中津城は細川忠利が城主になりますが、忠興は1620年(元和6年)に隠居すると中津城に戻り、中津城を完成させました。
 
1632年(寛永9年)、肥後国熊本城の加藤氏が改易となると、細川氏は52万石で肥後国へ転封となり、替わって播磨国龍野(現兵庫県たつの市)から小笠原長次(ながつぐ)が8万石で入封し、中津城主となります。
 
しかし、1698年(永禄11年)第3代の小笠原長胤(ながたね)が悪政・乱行により幕府によって改易となると、改めて長胤の弟長円が4万石に減じて中津城に封ぜられるも、第5代が幼少で亡くなったため、その弟が播磨国安志(現兵庫県姫路市)に一万石で転封となります。
 
その後、1717年(享保2年)丹後国宮津から奥平昌成(まさしげ)が10万石で入封し、中津城は明治維新まで奥平家の居城となりました。
 
 2.模擬天守と売却問題
 
中津城に天守閣が存在したかは定かではなく、現在のものは、1964年(昭和39年)に旧藩主奥平氏の子孫が市民の寄附を受けて観光開発を目的に建てた模擬天守閣で、復興櫓とともに中津市のシンボルとして親しまれています。
 
模擬天守等の城跡の建築物は、奥平家の子孫が代表取締役を務める中津勧業が、また、城址の土地は、隣接する奥平神社(同氏が代表役員を務める)が所有していましたが、年々維持費が入場料を上回り赤字となっていることから、2007年(平成19年)、土地、建物(展示物、奥平神社は除く)を、中津市か民間企業に売却する方針であることが明らかにされました。
 
中津勧業は、当初3億円の売却価格を中津市の希望通り1億5000万円に引き下げましたが、中津市では『1億3900万円までしか出せない』と譲らず、2010年(平成23年)7月、不動産会社を通じインターネット上で一般に売却することにしました。
 
同年10月、模擬天守などの建物が埼玉県で福祉事業を営む(株)千雅(ちが)に売却され(土地や展示物は有料で貸与)、中津城は、従来通り観光施設(奥平家歴史資料館)として一般公開されています。
 
下記の旅行記があります。
 ■旅行記 ・中津城を訪ねて − 大分県中津市
 ■旅行記 ・合元寺(赤壁寺) − 大分県中津市
  
参考サイト】
・模擬天守と売却問題については、中津城 - Wikipedia を参考にしました。
 

  2014.01.15
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