♪Prologue
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味取観音堂〜山頭火を歩く(1) − 熊本県植木町
                  
山口県防府の実家破産とともに妻子を連れて熊本市に落ちのびた種田山頭火(1882・明治15年〜1940・昭和15年)は、泥酔して進行中の路面電車の前に立ちはだって電車をストップさせるという事件を起こしました。山頭火は、山頭火の身の危険を案じた新聞記者によって、熊本市内の曹洞宗報恩寺まで連行され、翌年に寺の住職を導師として出家得度します。そして、大正14年3月、43才のとき、熊本県植木町の味取(みとり)観音堂(曹洞宗瑞泉寺)堂守となりました。しかし、堂守も1年2ヵ月しか続かず、44才の大正15年の春4月、『解くすべもない惑ひを背負うて』、行乞(ぎょうこつ)流転の旅に出ます。漂泊の俳人の始まりでした。放浪の旅の出発点となった味取観音堂を熊本県植木町に訪ねました。
                                        (旅した日 2006年03月)


放浪の出発点 〜 味取観音堂
味取観音堂(曹洞宗瑞泉禅寺)

                          
種田山頭火(たねだ・さんとうか) (1882・明治15年〜1940・昭和15年) 
  山頭火は、明治15年、山口県防府市に生まれた。早稲田大学文科を中退し、父と共に家業に従事したが失敗し、それから流浪の生涯が始まった。熊本に来たのが大正5年、彼が35才の時であった。酒にひたって家業を顧みず、上京したり帰熊したり奔放な生活を続けていた。
大正13年、出家して禅僧となり翌年、味取観音の堂守として、読経と句作の独居を続けた。観音境内の句碑に刻まれた『松はみな枝垂れて南無観世音』の句は、当時の作である。しかし、ここも永くは続かず1年2ヵ月にして去り、以来、放浪生活を送り昭和15年10月11日、四国松山市の一草庵で波瀾の生涯を閉じた。59才であった。
  山頭火は荻原井泉水の俳誌『層雲』によって
自由律の俳句をよんだ詩人で『鉢の子』をはじめ七句集やぼう大な日記類があり、「山頭火全集」まで出版されており、日本の俳句史上特異の地位を占めている。 平成13年10月22日 植木町教育委員会 (現地案内板より転載)
国道3号線から入ってすぐのところに味取観音堂の入口があります。

訪れたのは桜が三分咲きの快晴の日でした。
山頭火が何度も上がり下りしたであろう観音堂への階段

句碑
松はみな枝垂れて南無観世音
 山頭火


松風に明け暮れの生活をやりきれなく思う気持ちがにじみ出ているようです。山頭火も撞いた鐘でしょうか、社務所に下げてありました。

種田山頭火句集草木塔鉢の子より


大正十四年二月、
いよいよ出家得度して
肥後の片田舎なる味取観音堂守と
なつたが、
それはまことに山林独住の、
しづかといへばしづかな、
 さびしいと思へば
さびしい生活であつた。


松はみな枝垂れて南無観世音

松風に明け暮れの鐘撞いて


ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる


      
 
大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負う
 て、行乞流転の旅に出た。


分け入つても分け入つても青い山

しとどに濡れてこれは道しるべの石

炎天をいただいて乞ひ歩く


 放哉居士の作に和して


鴉啼いてわたしも一人



 
を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁な
 り(修証義)


生死の中の雪ふりしきる

木の葉散る歩きつめる



 昭和二年三年、
或は山陽道、或は山陰道、
或は
 四国九州をあてもなくさまよふ。


踏みわける萩よすすきよ

この旅、果もない旅のつくつくぼうし

へうへうとして水を味ふ






続きは
青空文庫で読むことができます

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 ・日奈久 ・佐敷 ・山頭火と金子みすゞ ・草木塔
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