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美々津〜神話と町並み− 宮崎県日向市美々津
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美々津は、日向市の南端を東に流れる耳川の河口に位置する静かな港町で、江戸時代から幕末にかけて高鍋藩の商業港として、京阪神との経済・文化の交流で隆盛を極めた町でした。河内屋・越後屋・若松屋といった取引先の地名を屋号に持つ廻船問屋が活躍し、耳川を使って集めた木材を千石船で上方方面に運び、帰路は上方の特産物や美術工芸品を持ち帰りました。町家には、白壁や出格子など京風の造りが取り入れられて、美しい町並みが形成されました。廃藩置県後、一時は県庁が置かれましたが、鉄道等の陸上交通の発達に伴い経済交流の拠点としての役割を終え、その後は発展から取り残された形になりました。1986(昭和61)年に『重要伝統的建造物群保存地区』に選定され、当時の町並みの面影が保存継承されています。美々津は、また神武天皇東征の御舟出地の伝説が残る町でもあります。         (旅した日 2005年05月)

美々津港
美々津港は、耳川の河口をそのまま港とする港です。高千穂を出られた神武天皇(初代天皇)が美々津に滞在され、天候の良い日を伺って大和へ向って船出されたという神武天皇東征の御舟出地の伝説が残る港ですその伝説から日本海軍発祥地とされ、記念碑が建てられています。
立磐神社とお腰掛け岩(写真右) 美々津港にある神武天皇を祭神とする立磐神社。参道右側には神武天皇が座ったとされるお腰掛け岩があり、岩そのものがご神体として崇拝されています。「神武天皇お船でものがたり」という観光案内が民家の塀に張ってありました(写真右上)。郵便受けは古代の船を模ったデザインで、町全体で統一されています(写真右下)。

町並み(重要伝統的建造物群保存地区)
和雑貨&喫茶の民(みん)の前に並べられた民芸草鞋(写真上左)。美々津の町並みは、海岸に平行に3本の主要街路が走り、それに直行して「ツキヌケ」という幅広の道(写真上右)が防火帯として設けられています。伝統的建造物の旧矢野家・美々津軒(写真下左)。市民の町並みを守る運動や文化継承活動の中心となっている「美々津まちなみセンター」(写真下右)は、お休み処となっています。
元廻船問屋・旧河内屋(現歴史民俗資料館) 安政2(1855)年築、間口の広い建物で、美しい京格子と白壁に当時の繁栄を偲ばれます。市指定文化財。
旧美々津郵便局舎(写真上左)は、周囲と調和した佇まいを見せています。ところどころに共同井戸があり、井戸の脇には必ず小さな社が祭られています(写真上右)。備前屋の表札のある白壁土塀の建物(写真下左)。江戸時代に幕府や藩が民衆に直接伝達する手段として用いられた立札は、高礼とも言われます。高礼場跡には、観光案内板として高札が復元されています(写真下右)。
天保4(1833)年築の矢野家住宅美々津で最も古い建物。家の前に、『バンコ』と呼ばれるはね上げ式の縁台が設けられているのが美々津の町家の特徴です。
■『お舟出だんご(つきいれ餅)』と『おきよ祭り』
美々津や宮崎市内では、『お舟出だんご』、あるいは『つきいれ餅』と呼ばれる団子が売られています。神武天皇は旧暦8月1日の昼頃、美々津から大和東征に船出される予定でしたが、風向きが変わったため早朝に船出されることになりました。かねてから献上するはずだったお祝いの団子が間にあいません。そこで、村人は米の粉と小豆と塩を混ぜて蒸し、これをついて神武天皇にもたせたました。これが由来だと言われています。
  → http://www.h7.dion.ne.jp/~daiginjo/harekichi_wagashi_22.html
  → http://www.okashi-net.com/meika/ky/tsukiiremoti.html

神武天皇の船出が急遽早朝に変更になったので、村人たちは、あわてて
「おきよ、おきよ」と呼びかけあって、浜に馳せ参じました。美々津では、この故事にちなんで、毎年旧暦8月1日の早朝に子供たちが短冊を飾った笹竹を打ち振るって家々を起こしてまわる『おきよ祭り』という祭りが行われるそうです。

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