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旧松丸街道 |
旧松丸街道 |
愛媛県の南部(南予地方)に位置する宇和島市中心部から東へ約18km、車で25分の愛媛県北宇和郡松野町の中心・松丸は宇和島藩領と土佐藩領との境界の要衝として重視され、宇和島藩により積極的に在町が形成され、在郷町・宿場町として大いに発展したところでした。 |
清酒『野武士』の(有)正木正光酒造場 |
藩政時代には宇和島藩の在町として、鬼北盆地や土佐幡多郡の物資の集散地として栄えました。和紙・蕨粉・楮・櫨・茶などの山間部の物資が集められ、日用品を販売する物産問屋、製蝋・酒造・醤油の醸造などの商工業が発展しました。その往時の面影を残す古い町並みを旧松丸街道沿いに見ることができます。 |
岡清商店(かつての豪商岡田屋) |
松丸の古い町並みはバイパスになった国道 381号線から数百メートル南西に入った旧道沿いに残っています。かっての豪商の家屋や造り酒屋の大きな母屋や酒蔵を見ることができます。緩やかに自然湾曲した街道に沿った町並みは現代的な建築があまり目立たない落ち着いた佇まいを見せています。 |
旧松丸街道の家並み |
司馬遼太郎氏の『街道をゆく・シリーズ』では、土佐藩を脱藩した坂本龍馬がこの道をたどって、土佐から宇和島へ入ったとされています。また、昭和初期の俳壇に彗星のごとく現れその天賦の才を注目されながら病気のため26歳という若さでこの世を去った俳人・芝不器男の出身地であり、生家が町立の記念館として改築・運営されています。 |
旧松丸街道の家並み |
芝不器男(しば ふきお) 明治36年(1903年)愛媛県北宇和郡明治村(現・松野町松丸)生まれ。本名、不器男。県立宇和島中学校、松山高等学校を経て、東京帝国大学農学部林学科に入学するも関東大震災で休学。大正14年(1925年)中退して東北帝国大学工学部機械工学科に入学。 |
重厚な瓦屋根(正木正光酒造場) |
吉岡禅寺洞主宰の『天の川』の新進作家として活躍するようになります。冬季休暇で帰省して以後は仙台に戻らず、東北帝大を除籍。昭和3年(1928年)、伊予鉄道電気副社長・太宰孫九の長女・文江と結婚し、太宰家の養嗣子となります。翌年発病、九州帝国大学病院に入院後、福岡市内に仮寓。昭和5年(1930年)2月24日、死去。享年26。 |
不器男之家(松野町立芝不器男記念館) |
句歴四年で残した俳句はわずか 175句ながら、『昭和の俳壇を駆け抜けた夭折の俳人』と呼ばれ、いまもファンが多い。芝不器男記念館は、不器男の生家を改修して昭和63年(1988年)に松野町立としてオープン。直筆の短冊や日記帳、愛用品などを展示。周辺には句碑を巡る『俳句の小径』があり、ゆかりの地を歩きながら彼の句を鑑賞できます。 |
芝不器男記念館 |
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