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旅行記 ・松ヶ岡開墾場 − 山形県鶴岡市羽黒町 2017.06.02
松ヶ岡開墾場
国指定史跡・松ヶ岡開墾場
 四十六番札所 東北・夢の桜街道 〜桜の札所・八十八カ所巡り〜 松ヶ岡開墾場
松ヶ岡開墾場は、明治維新直後、旧庄内藩家老菅実秀翁が、肝胆相照らした仲の明治政府参議西郷隆盛翁の勧めにより、養蚕による庄内の再建を目指して設けれた所で、明治5年、旧藩士3000人が刀を鍬に替え、311haの桑畑を開墾し、大蚕室10棟を建設した。桜は、大正10年開墾50周年に植樹され、現在、大蚕室群の中央を桜花のトンネルが歴史的空間を彩る。(下写真の看板より)。
松ヶ岡開墾場
松ヶ岡シルク 松ヶ岡開墾の歴史は、蚕種から絹織物の製品化までの一貫した工程が1つの街に集約された、日本最北限の絹産地・鶴岡を作り上げました。鶴岡シルクの中でも特に『松ヶ岡シルク』は、純白で上品な輝きとしなやかな手触りに優れた良質なシルクとして有名だそうです。
庄内農具館(4番蚕室)
庄内農具館(4番蚕室) 1875年(明治8年)に創建された蚕室の一棟で、4番蚕室と呼ばれてきました。桁行21間(37.8m)、梁間5間(9m)で、この由緒ある蚕室を活用して、乾田馬耕や稲の品質改良の資料、農村風俗の人形などを通して、庄内農業のうつりかわりと昔の農作業の様子をわかりやすく展示しています。
庄内農具館(4番蚕室)
併せて、左手に建つ白亜のコンクリート建物(国指定重要有形民俗文化財『庄内の米作り用具』収納庫)内に収蔵保管されている在来の農耕用具などによって庄内農業の地域的特色や、その進歩、変遷を考えることができます。また、この蚕室の一室には土に生きる生活文化として農耕儀礼や収穫祭などの時に用いるアフリカ・インドネシアの楽器等を展示しています。
松ヶ岡開墾場記念館(1番蚕室)
松ヶ岡開墾記念館(1番蚕室) 明治8年(1875年)に、名匠・高橋兼吉ら2名の棟梁のもと、養蚕業の先進地であり研修先となった上州島村(現群馬県伊勢崎氏境島村)田島家の蚕室を模して建造されました。桁行21間(37.8m)、梁間5間(9m)、2階建ての上に、さらに通風換気の越屋根が取り付けられています。
松ヶ岡開墾場記念館(1番蚕室)
屋根には、同年に取り壊された鶴ヶ岡城の瓦が使われました。現在は松ヶ岡開墾記念館として、1階では主に明治の松ヶ岡開墾資料、2階では全国の土人形・土鈴などの田中コレクションを展示しています。田中コレクションは、開墾士の末裔である田中正臣・正佐兄弟が収集した2万5千点を超えるコレクションが寄贈されたものです。
松ヶ岡開墾場記念館内
松ヶ岡開墾場蚕室 当蚕室は明治8年4月に最初の4棟が建てられたその内の1号棟であり、遂時明治9年に4棟、そして冬に2棟と全部で10棟の大工場建築群でした。これらは旧西田川郡役所あるいは旧鶴岡警察署等の設計施工に当たった棟梁高橋兼吉の作といわれています。
松ヶ岡開墾場記念館内
この様な当時の産業建築としては、慶応3年薩摩藩でイギリスの建築家J・Tウォートルスの手になる紡績所が様式工場として作られ、次いで明治5年フランス人E・Aバスチャンの設計で官営富岡製糸工場が木骨煉瓦造として作られその3階建ての偉容が錦絵に画かれています。
菅実秀と西郷隆盛(松ヶ岡開墾場記念館内)
この錦絵の3層の工場の外観が全く上州島村式を模した当蚕室の外観と同じで、島村式は富岡製糸工場の影響を受けた建築であったと考えられます。富岡製糸工場は構造形式に真束、方杖等をもつ小屋組を有する洋式構造の工場ですが、当蚕室は大きな柱、大きな梁をもつ和風構造形式建築で、2階腰窓に和風建築独特の無双窓をつけていました。
ダリアの植付け準備(松ヶ岡開墾場記念館前)
富岡製糸工場は官営の産業施設であり、そして当時流行の洋風建築でした。しかし、この蚕室は数少ない民営の産業施設の一つであり、まして当時の重苦しい時代に生まれた強大な近代的建築に転身する独創的な和風建築ということができるでしょう。なお方杖は明治17年に暴風で2棟倒壊したのでその後つけられたものと思われます。
松ヶ岡開墾場記念館(1番蚕室)
西郷南洲翁と菅実秀翁 庄内藩は、江戸薩摩藩邸を焼き打ちし、その後の戊辰戦争では新政府軍に最後まで執拗に抵抗した藩でしたから、戦後、旧庄内藩の藩主や藩士らは、厳重な処罰が下るものと覚悟していました。ところが、新政府軍参謀・黒田清隆から告げられたのは案に相違して極めて寛大ものでした。ら、敗戦後の庄内藩の再建を進めて行くことになります。
松ヶ岡開墾場記念館(1番蚕室)
庄内藩に対する寛大な処置は実は、戦況視察のために来庄した西郷隆盛が予め黒田参謀に指示していたものでした。のちにこのことを知った菅実秀は、西郷の厚遇によって藩の危機がすくわれたとたいへん感動し、以後西郷に師事、西郷の指導を仰ぎなが敗戦後の庄内藩の再建を進めて行くことになります。
2番蚕室(改装中)
11代藩主だった酒井忠篤公は、明治3年(1870年)、藩士76名を率いて鹿児島を訪れ 100日余り滞在して西郷の教えを受け、寝食を共にしました。そして、翌明治4年、菅は上京して西郷と初会見します。二人はまるで古くからの友人のように互いに喜び合い、その様子は『敬すること兄のごとく、親しむこと弟のごとき』であったといいます。
松岡窯陶芸教室・陶の蔵(旧桑葉貯蔵庫)
松岡窯陶芸教室・陶の蔵は、旧桑葉貯蔵庫にオープン。どこかなつかしい蔵の陶芸教室と器ショップ。持ちかえり絵付け、タイルクラフトなどの体験が新登場。また、そば打ち(羽黒産そば粉使用)体験、うどん打ち体験、もちもちの米粉ピザ作りなどの『おいしい教室』体験も実施していて好評です。
おカイコさまの蔵(3番蚕室)
おカイコさまの蔵(3番蚕室)では、半世紀ぶりに蚕の飼育が再開され、今年(2017年)は2度めの春蚕だそうです。6月3日(土)から春蚕の見学&餌付(給桑)体験が行われています(但し、蚕の成長に合わせ終了となります)。また6月6日には、一般市民が蚕の飼育を体験するキットが幼稚園・保育園32園、小学校12校、福祉施設3施設に配布されたそうです。糸を吐き出して繭を作るまで約3週間、各施設で飼育されます。
庄内映画村資料館(5番蚕室)
庄内映画村資料館は、明治期(築約 150年)の日本一大きな木造蚕室の一つ(5番蚕室)を舞台に、映画『おしん』『スキヤキ・ウェスタン・ジャンゴ』の室内セットはじめ、衣装や小道具、名作洋画・邦画のポスター・ロビーカード等、総展示数1000点を越す撮影資料や機材を展示しています。
庄内映画村資料館(5番蚕室)
ミニシアターでは、プロモーション映像や特別ダイジェスト版、懐かしのニュース映画なども鑑賞できます。そのほか、着物や甲冑を身に着けて記念写真を撮ったり、懐かしい茶の間や武家屋敷のロケセットに接したり、また往年の銀幕スターの思い出に出合ったりがりできます。
松ヶ岡本陣
松ヶ岡本陣 庄内藩主となった酒井家第3代忠勝公は元和8年(1622年)に入部し直ちに仮殿を建ててこれに住み、居城の拡張整備をはじめました。仮殿は、高畑御殿とよばれていましたが、居城の竣工に伴い藩主はこれに移り、この御殿は子息たちの住居としていました。
松ヶ岡本陣
貞亨3年(1686年)、その中の一棟を現在の藤島町下町(現・鶴岡市藤島字西川原)に移し、藩主江戸往復の際の休憩所として御茶屋と称した。これを明治5年(1872年)、松ヶ岡開墾事業の始まるにおよび現在地に移築、集会所兼事務所とし、本陣と称して今日に至っています。
『気節凌霜天地知』
『気節凌霜天地知』 西郷隆盛が松ヶ岡開墾に携わる旧庄内藩士に贈った箴言(しんげん=教訓の意味をもつ短い言葉)の激励の言葉。『困難に直面してもそれを凌(しの)ぐ強い心意気・意志があれば、天は見ていますよ。必ず苦労に、こたえてくれるものです。』という意味で、松ヶ岡本陣の玄関に書にして掲げられています。
松ヶ岡開墾場綱領
松ヶ岡開墾場綱領 『気節凌霜天地知』は、松ヶ岡開墾事業の精神となった言葉で、松ヶ岡開墾場綱領の2番目に、『気節凌霜天地知の箴(しん=いましめの言葉)は我が松ヶ岡の精神なり、之を服膺(ふくよう=心にとどめて忘れず行うこと)して節義廉恥(節度を守って正義を重んじ、恥を知る心)を振起す(奮い立つ)べし』とあります。
蚕業稲荷神社
蚕業稲荷神社 東京の旧酒井家藩邸に鎮座と言い伝えられている稲荷様を昭和6年(1931年)に松ヶ岡開墾場に遷座し、松ヶ岡神社と称しました。昭和23年(1948年)に経塚の現在地に遷し蚕業稲荷神社と称して奉祀しています。現在は、毎年5月1日に春祭り、9月上旬に秋祭りを行っています。
くらふと松ヶ岡こぅでらいね(女工宿舎)
くらふと松ヶ岡こぅでらいね(写真上)は、2006年9月に鶴岡市羽黒町松ヶ岡にオープンしたクラフトショップ&体験ギャラリー。現在15名の作家が常設展示・販売をしています。 新徴屋敷(写真下)、庄内藩江戸取締の際文久3年(1863年)からその配下となった浪士組織新徴組の人たちが庄内に移住してきたので、明治3年(1870年)鶴岡城下大宝寺地内に藩が建てた100棟の住宅のこと。そのうち約30棟を明治8〜9年頃に組小屋として松ヶ岡に移築してやがて開墾士各戸の住宅としました。
新徴屋敷
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