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旅行記 ・丸亀城 − 香川県丸亀市 2017.04
丸亀城
大手二の門と天主
丸亀城 丸亀城は、丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66メートル)を利用し、縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを堀(内堀)で囲む渦郭式平山城です。石垣は、緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるよう独特の反りを持たせる『扇の勾配』となっています。
大手二の門
山麓から山頂まで四重に重ねられ、合わせると60メートルになり、総高としては日本一高く、三の丸石垣だけで一番高い部分は約22メートルあります。但し、あくまで総高としての日本一であり、単体としての日本一高い石垣は大坂城で、僅差で上野城が続いている。ちなみに大坂城と上野城の高さは共に約30メートルです。
 堀に泳ぐ鯉のぼり
頂部の本丸には江戸時代に建てられた御三階櫓が現存します。この建物は唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られ高さは15メートルあり、現存三重天守の中で最も小規模です。天守のほかに大手一の門、大手二の門、御殿表門、番所、長屋が現存しており、そのうち天守、大手一の門、大手二の門が国の重要文化財に指定されています。
堀の石垣
丸亀城の歴史 室町時代初期、管領・細川頼之重臣の奈良元安が亀山に砦を築きました。豊臣政権の時代の慶長2年(1597年)、生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城として、亀山に支城を築き、6年の歳月を要して慶長7年(1602年)にほぼ現在の城郭が完成しました。
大手一の門
元和元年(1615年)に一国一城令により破却の危機にさらされますが、時の藩主・生駒正俊は要所要所を樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限して、城を破却から守りました。寛永17年(1640年)に生駒氏がお家騒動のため出羽国矢島(現秋田県由利本荘市)に転封となり、翌年に山崎家治が肥後国富岡(現熊本県天草郡苓北町)より5万石で入封し、丸亀藩が立藩しました。
山下御殿跡(御殿表門へ)
寛永20年(1643年)に 城の改修に着手。幕府が家治に、瀬戸内の島々にいたキリシタンの蜂起に備えるための城をつくらせたのではないかと言われ、幕府は丸亀藩に銀 300貫を与え、参勤交代を免除し、突貫工事をやらせています。万治元年(1658年)に山崎氏が3代で無嗣断絶し改易となります。
御殿表門(玄関先御門)
代わって播磨国龍野(現兵庫県たつの市)より京極高和が6万石で入封。以後、明治時代まで京極氏の居城となる。高和は、万治3年(1660年)に城の裏口にある海側の搦め手門を大手門に変更しました。その大手門から見上げる石垣の端に、現在の3層3階の御三階櫓が完成した。延宝元年(1673年)に32年の歳月を要し大改修が完了。現存する石垣の大半はこの改修の際に完成したものです。(以上、丸亀城 - Wikipedia より)
三の丸石垣
石垣の美 右手頭上に三の丸の高い石垣が美しさと堅固を誇ってそそり立つ坂は一般に『見返り坂』と呼ばれていて、新緑の頃は楓の若葉が、秋は紅葉が楽しい。石垣の上端で垂直に立ち、徐々に緩やかな曲線を描き、ついに土に埋れる優美な石垣の姿は、丸亀城の美しさである。三の丸の石垣の高さは約22メートルあって、本丸まで三段の高さは40メートルに近い。この城壁に丸亀城の風格を偲ぶことができる(現地の説明板から)。 
三の丸への急な坂 
三の丸 見返り坂を登ると三の丸である。海抜50.5メートルの平地で、東方の眺めはすばらしい。飯野山(讃岐富士 422メートル)がそびえ、その手前に土器川が南から北へ流れ、その北に背ノ山が横たわり、さらにその北に遠望するのは坂出市番の州工業団地と瀬戸大橋である。東南隅に巽櫓の跡がある。土器川の東と城の南方は旧高松藩領で、それを見張る櫓であった。月見にはよい位置であったから月見櫓とも呼ばれた(現地の説明板から)。  
三の丸
豆腐売りの人柱伝説 丸亀城を築城中、何度積んでもどうしても石垣が崩れてしまう所があったそうです。石垣の工事が難航したため、人柱を立てることとなりました。その当時、人柱を建てると地盤が堅固になるという言い伝えがあったそうです。しとしと雨の降る中、工事の人夫たちは通行人を待ちました。
二の丸へ
夕暮れ、豆腐売りが通りかかり捕えられ、無理矢理人柱として生き埋めにされてしまいました。豆腐売りは雨で豆腐が売れないため、普段は通らない城の付近を偶然通り掛かったのです。その後、石垣の工事は完成しましたが、それ以来、雨が降る夜にはその石垣の辺りで『と〜ふ〜、と〜ふ〜』という豆腐売りの声が聞こえて来たといいます。
二の丸井戸
二の丸井戸 この井戸は直径が1間(1.8m)、深さは絵図によると36間(約 65m)と記され、日本一深い井戸といわれています。丸亀城でも最も高いところにあり、現在も水を湛えています。そして丸亀城の石垣を築いた羽坂重三郎がこの井戸で殺されたという伝説が残っています。
丸亀城天主
石垣づくりの名人と謳われた羽坂重三郎は城主に『見事である。この石垣を登れるものはあるまい』とほめられました。しかし、重三郎が『私ならば尺の鉄棒があれば登れます』といって短い鉄の棒を使って登ってみせました。これを見た城主は、重三郎が敵と通じることを恐れて嘘の井戸の調査を命じて井戸に埋め殺してしまったのです。
山下御殿跡(山下曲輪)
山下曲輪(やましたくるわ) 亀山の麓の平地には山下曲輪を配し、山下曲輪には藩政時代の政庁で、藩主の居住空間でもあった山下御殿がありました。御殿は現存していませんが、御殿表門、番所、御駕籠部屋、長屋が現存し、香川県の文化財に指定されています。芝生広場や丸亀市立資料館は御殿のあったところです。
天守から望む丸亀市内
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