木の濃緑が壁板に映えます。 |
校名は、『明親館』とつながりをもつ山田方谷が、中国の古典・詩経にあるつぎの一節
『出自幽谷遷于蕎木』
(ゆうこくよりいでてきょうぼくにのぼる(うつる))
から2文字を取って『遷喬』(せんきょう)と名づけました。ウグイスが深山の暗い谷間から飛び立ち、高い木に移ることに例えて、学問に励み出身立世することと解釈されています。 |
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前身と校名 |
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明治3年(1870年)に旧久世町内の有志が発起して『明親館』という塾が作られました。命名は備中聖人の山田方谷で、自ら明親館の額を書き、塾の先生には方谷の門人があたり、生徒数は46人だったそうです。
明治7年(1874年)、栄町の中国銀行久世支店の付近にあった久世代官所御蔵(年貢米倉庫)を校舎として開校しました。
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高瀬舟をかたどった校章も印象的 |
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