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東明山興福寺 − 長崎市
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国内最初の黄檗禅宗(おうばくぜんしゅう)の唐寺として知られる興福寺の由来は古く、中国・明の商人が長崎と行き来を始めた頃に渡来した中国人が、1620年ごろ航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。徳川幕府のキリスト禁教令(1614年)が厳しく、長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを証明するためにも、崇福寺、福済寺、聖福字などの唐寺がつぎつぎと建てられたといわれます。日本最古の石橋の眼鏡橋を架設したといわれる第2代目住職・黙子如定(もくすにょじょう)、南画の祖と称される第3代目住職・逸然、さらに明の高僧・隠元隆g(りゅうき)禅師が住職として興福寺に滞在された頃には、大きな堂宇が建ち並び、全国から僧や善男善女が参集して禅の一大センターとなったといわれています。               (旅した日 2007年05月)


興福寺山門
興福寺山門
興福寺に最初に建てられた山門は、1663年(寛文3年)に起こった市中大火によって類焼しました。現存するこの山門は、1690年(元禄3年)に再建されたもので、構造は三間三尺八脚門の入母屋(いりもや)造で、単層屋根・総朱塗となっている壮大な門です。細部は和風であり、日本人工匠の手によるものです。

山号・『東明山』
山門の入口上方には『東明山』とあります。興福寺の山号で、隠元禅師がつけたものといわれます。衰退した仏祖の教えも必ずや東に明らかになるであろうという意味だそうです。


隠元筆・『初登宝地』
この地は、1654年(承応3年)中国から来朝した
隠元禅師の初登の地であるため、山門の背面梁上に、隠元筆による『初登宝地』(しょとうほうち)という扁額(へんがく)が掛けられています。



-DATA-
■所在地/長崎県長崎市長崎市寺町4-32
■拝観時間/8:00〜17:00
■アクセス/長崎駅前から市電・公会堂前電停で下車、徒歩約8分。
写真は、上より『興福寺山門』の正面からの風景、山号『東明山』の扁額、隠元筆の扁額『初登宝地』


大雄宝殿(本堂) 国指定重要文化財
興福寺本殿(大雄宝殿)
ゆったりとした南方風の興福寺大雄宝殿(本堂)は、1663年(寛文3年)の市中の大火後、1667年(寛文7年)に再建された仏殿が、1865年(慶応元年)の暴風で大破したため、1883年(明治16年)新築されました。すべて中国技術者の手による純中国建築で、資材も中国より運送して建造された
そうです。明治時代の建築でありながら、戦前より国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されています。

本堂を『大雄宝殿』と呼ぶのは、釈迦(大雄)を本尊としていることによります。堂外の正面高く掲げられている『大雄宝殿』の扁額は、当初は隠元禅師の筆でしたが、失われ、現在のものは、崇福寺の複製です。

前廊部の黄檗天井(おうばくてんじょう)、隅屋根の強い反転曲線、巧緻(こうち)な彫刻と華麗な色彩、
氷裂(ひょうれつ)式組子(くみこ)の円窓、大棟上の瓢瓶(ひょうへい)などは、珍しい貴重な様式です。

他の禅宗である臨済宗や曹洞宗は、鎌倉期に日本に伝わって以来、日本化して行ったのに対して、黄檗宗は本来、禅宗臨済宗の一派でありながら、
意図的に中国禅を受け継ぎ、仏像や建築様式、修行生活に至るまで、中国色が強かったため『臨済宗黄檗派』といわれていました。明治になって、臨済宗から独立し、『黄檗宗』と称するようになりました。
独特の組子や格子が美しい黄檗天井。本堂入口に掲げられた『航海慈雲』の扁額は、航海の安全を祈って創建されたこの寺の起源を物語っています。

鐘鼓楼
鐘鼓楼(写真左側の建物)は、1663年(寛文3年)の大火の後、1691年(元禄4年)に再建。二階建てで、上階は梵鐘を吊り、太鼓を置き、階下は禅堂として使用されました。 写真中央の建物が、媽姐堂(まほ・ぼさどう)、右端が本堂の屋根。


三江会所門(さんこうかいしょもん)
三江会所門
江南・浙江・江西三省出身者が明治初期に設立した集会所。原爆で大破し、現在は門だけが遺存しています。
豚返しの高い敷居が中国風です。三江会所跡に造られた庭園『東明燕』(とうめいえん)は、 江戸時代につくられたもので、庭には『黄檗池』とよばれる形の池があります。


魚板(ケツ魚)
庫裡の入口にさがる巨大な魚鼓は、寺院の衆に飯時などを告げるために叩いた木彫りの魚。揚子江にいるといわれる幻の魚『ケツ魚』をかたどったもの。口に含む玉は、『欲望』を表し、これを叩いて吐き出させるという意味を持っています。
豚返しの敷居(写真右)
放し飼いの豚が門内に入らないように、敷居が高くなっています。人が通るときは、写真のように二段式の上部を取り外します。
写真は、三江会所門より望む庭園(写真上)、三江会所門と豚返しの敷居(写真中)、魚板(ケツ魚)(写真下)。


隠元隆g(りゅうき)禅師
写真左は、興福寺の隠元禅師木像
黄檗宗祖東渡三百五十周年記念碑

中国明末の大禅匠隠元隆g禅師が長崎に渡られて今年は三百五十周年に当たります。禅師は、長崎に一年滞在し、純粋な中国禅の指導に活躍され、興福寺、崇福寺は、全国から参禅を求める人々の大道場になりました。やがて、幕府より京都宇治に土地を賜り、黄檗山萬福寺を創建、黄檗宗宗祖となられました。隠元禅師の来日は、鎌倉以来沈滞していた日本の禅に正しい光を当てるとともに、建築、工芸、絵画、詩文、書および茶礼、食文化などの広い分野に現代にいたる影響を与えております。隠元禅師の長崎到着、承応三年(1654)七月五日を吉日とし、その清冽な宗風と偉業を末永く顕彰し、ここに隠元御書三幅対を記して記念碑と致します。
                       
           平成十六年七月五日 黄檗宗西日本地区協議会建立




花 慧 鳥
開 日 唱
萬 正 千
国 東 林
春 明 暁
媽姐堂(まそ・ぼさどう)
媽姐(まそ)
命がけで航海をした時代、唐船には必ず海上守護神である『媽姐(まそ)』が祀られ、香花を供する香工、太鼓役の直庫(てっこ)がこの船神に奉仕して乗り組んでいました。船が港に在泊中、媽姐像は船から揚げられ媽姐堂に安置され、航海安全を祈りました。長崎における唐寺は最初、媽姐堂として発足したと伝えられています。

媽姐信仰の起こりは、宋代の頃、福建省興化で幼い頃から女神と謳われていた林氏の娘が大海に没して神となり、しばしば海難から船をすくったことによるといわれています。



順風耳(青鬼)と千里眼(赤鬼)

順風耳は、大きな耳が特徴で、あらゆる悪の兆候や悪巧みを聞き分けて、いち早く媽姐に知らせる役割を持っていました。千里眼は、三つの目が特徴で媽姐の進む先や回りを監視して、あらゆる災害から媽姐を守る役割を持っていました。

興福寺の媽姐堂(写真上)は、1670年(寛文10年)の扁額『海天司福主』がある、当寺最古の建物です。
写真は、上より、興福寺媽姐堂(まそ・ぼさどう)、 順風耳(青鬼)と千里眼(赤鬼)、媽姐(まそ)。
ランタンフェスティバルの日
ランタンフェスティバルの日の興福寺山門                 2005.02.14撮影

媽姐行列                           2005.02.14撮影
媽姐像を船から揚げて唐寺に安置し、出航時に再び船に戻す儀式的な行列が『媽姐行列』でした。行列には、唐人をはじめ、通事、役人に小者も加わり、ラッパやドラ、爆竹の音も賑やかに直庫振り(てっこふり)が厄払いをしながら先導する珍奇なもので、往時の長崎人はこれを喜んで迎えたといいます。写真は、ランタンフェスティバルの日の媽姐行列で、媽姐の前を行く順風耳(左)と千里眼(右)。
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