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旅行記 ・高知 − 高知県高知市 2017.04
高知城
(国の重要文化財)
高知城(追手門と天守閣)
高知城 江戸時代初期に土佐藩初代藩主・山内一豊(やまうち かずとよ)によって着工され、2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた城。本丸の建造物が完全に残る唯一の城として知られている。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、太平洋戦争による戦災を免れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。
山内一豊の銅像(騎馬像)
山内一豊 1545年〜1605年。戦国・安土桃山時代の武将で、信長、秀吉、家康の三人に仕えた。浪人から最終的には土佐24万石の大名に大抜擢され、一国一城の主となったことで知られる。また、その妻、山内千代(やまうち ちよ)は、一豊を内助の功で支えて夫の立身出世の為に尽くした良妻賢母の見本とされ、様々なエピソードが残されている。
山内容堂公生誕の地
山内容堂 1827年〜1872年。土佐藩15代藩主。嘉永6年(1853年)の黒船襲来を契機に藩政改革を断行、改革派の吉田東洋を登用し成果を上げ、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とともに、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、酒と女と詩を愛し、自らを『鯨海酔侯(げいかいすいこう)』と称した。
山内容堂公邸址
幕政にも積極的に参加し、将軍継嗣問題では一橋慶喜を擁立する一橋派を支援するが、対立する大老井伊直弼に弾圧を受け、2年半にわたり謹慎生活を送る。以後公武合体派として幕政改革に乗り出し、盟主・武市瑞山(たけち ずいざん)の土佐勤王党を弾圧、藩内の尊攘激派の鎮圧に努める。慶応3年(1867年)後藤象二郎の進言を受け入れ、徳川慶喜に大政奉還を建白。雄藩連合を構想した。
 武市瑞山
武市瑞山殉節地(高知市帯屋町)
武市瑞山(たけち ずいざん) 1829〜1865年。通称を半平太(はんぺいた)。坂本龍馬とは遠縁にあたる。優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。公武合体論を奉ずる参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功。しかし、勤王党の弾圧が始まり、藩内が再び公武合体論へ傾くと、藩主山内容堂によって捕らえられ、藩命により切腹。37歳だった。維新後、容堂は、武市瑞山を殺してしまったために土佐藩内に薩長に対抗できる人物を欠いて新政府の実権を奪われたと考え、これを悔やんだという。
  土佐の偉人
16人の『土佐の偉人』
山内容堂(大政奉還を建白)、岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)、山内千代(山内一豊を内助の功で支える)、武市瑞山(月形半平太のモデル)、坂本龍馬(維新回天の立役者)、坂本乙女(坂本龍馬のよき理解者)、中岡慎太郎(幕末、土佐陸援隊長)、浜口雄幸(高知出身、最初の総理大臣)、寺田寅彦(物理学者で随筆家)、大町桂月(終生酒と旅を愛した文人)、山内一豊(初代の土佐藩主)、中浜万次郎(漂流、漁師から武士へ)、野中兼山(藩政時代、悲劇の宰相)、長曾我部元親(戦国時代、土佐の覇王)、板垣退助(自由は土佐の山間より出づ)、牧野富三郎(花を愛して94年)
ホテル三翠園
(旧山内家 土佐藩主下屋敷跡)
三翠園(玄関)
ホテル三翠園 土佐藩主山内家下屋敷跡に建つ歴史の息づく宿。1945年(昭和20年)、太平洋戦争直後の荒廃した高知を再生させる観光おこしとして、 国際観光ホテルを建設する運動が盛り上がり、1946年(昭和21年)にホテル建設候補地として鷹匠町の旧山内藩主邸購入が決まる。 1948年(昭和23年)、土佐観光施設協会を設立され、工事を着工。1949年(昭和24年)、三翠園開業。(参考:三翠園ホームページ)
三翠園(玄関と旧山内家下屋敷長屋)
旧山内家下屋敷長屋 幕末の元治元年(1866年)に土佐藩15代藩主山内容堂の下屋敷(南御屋敷)として侍屋敷7軒を召し上げて建設された武家屋敷内に建てられた長屋である。屋敷の警護に就く多数の足軽が宿泊するために建設されたものとされる。下屋敷(別邸)は明治時代は拡張され山内家の本邸として使用されていたが戦後に売却された。
 三翠園(旧山内家下屋敷長屋)
その跡地はホテル三翠園になっている。現在は長屋のほか門と物見亭が現存する。物見亭は慶応3年(1867年)2月に容堂と西郷隆盛が会見した場所として著名である。当長屋はホテル三翠園の外構の一部として保存され、1978年(昭和53年)に高知市に譲渡された(ウィキペディアより)。
三翠園(ロビーより庭園を見る)
はりまや橋
現在の播磨屋橋(はりまや橋)
播磨屋橋(はりまやばし)は、高知市中心部にある道路橋で、長さ約20mの桁橋である。俗に、ひらがなで『はりまや橋』と表記されることも多い。橋の名前は、江戸時代に、高知の豪商であった播磨屋と櫃屋(ひつや)の本店が堀で隔てられていて、両者の往来のために架けられた私設の橋が「播磨屋橋」(はりまや橋)だったことに由来する。
復元された朱色の欄干のはりまや橋
元来は堀川に架かる小橋であったが、1928年の土佐電鉄桟橋線延伸開業に伴う高知市の街路整備により、姿が一変する。さらに、1960年代に入ると水質汚濁が顕著となり、堀川はほぼ全長に渡って埋め立てられ、1998年(昭和63年)に現在の石造りの橋にリニューアルされた。建てられた鯨の親子が潮を吹く仕組みになっている。る。
ペギー葉 記念植樹
ところが、『はりまや橋』は、『♪土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た〜』とよさこい節に歌われ、純信とお馬の恋物語でも知られていて、あまりにも有名。そこで、はりまや橋公園が整備され、川のせせらぎを再現。純信・お馬の物語をイメージさせる朱塗り欄干の『はりまや橋』が掛けられた。
『南国土佐を後にして』の歌碑
2012年には、はりまや橋公園にペギー葉山の楽曲『南国土佐を後にして』の歌碑が建てられた。碑は午前8時半から午後8時半まで1時間おきにペギー本人の歌声が流れ、隣に建てられた鯨の親子が潮を吹く仕組みになっている。播磨屋橋南方にははりまや交差点があり、とさでん交通桟橋線のはりまや橋停留場、はりまや橋バス停留所が位置する交通の中枢となっている。隣に
 
 とさでん交通桟橋線はりまや橋停留場
南国土佐を後にして 
 
昭和三十年代、歌手のペギー葉山が歌って全国的に大ヒットし、南国土佐ブームを招いたこの歌は、日本の歌謡史の中でも特異の環境から誕生し、今に歌い続けられている歌である。原詞・原曲は第二次世界大戦のさなか、中国の戦場に派兵された第四十師団に属し、高知市朝倉で編成された歩兵第二三四連隊(通称・鯨部隊)所属の土佐出身の兵士により作られ広く歌われた。鯨部隊は終戦に至るまでの約七年、一度も内地の土を踏むことなく、過酷な戦場で戦い続けた。先の見えない戦野にあって、この歌は兵士たちに故郷の山河、父母、兄弟、姉妹、恋人の面影を思い出させ、胸をえぐられるような、切ない郷愁の思いから自然発生的に生まれてきた歌である。以上、高知市のはりまや橋の『南国土佐を後にして』案内板より 
 
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