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旅行記 ・金王八幡宮 − 東京都渋谷区 2016.09.23
 
こんのうはちまんぐう
金王八幡宮
金王八幡宮・神門
金王八幡宮(こんのうはちまんぐう) 金王八幡宮はJR山手線渋谷駅の東口から東へゆるい坂を10分ほど上ったところにある八幡宮で、主祭神は応神天皇。今から約1000年前の永保3年〜7年(1083年〜1087年)、東北地方で『後三年の役』(平安時代後期の東北地方を舞台とした戦役)が起きました。
金王八幡宮・神門
この戦役において、源義家のもとで活躍した平武綱(たいら の たけつな)は、その大功により、河崎土佐守基家(かわさきとさのかみもといえ)という名と、武蔵谷盛庄(現在の渋谷一帯)を領地として賜りました。この地の戦いで勝利した源義家は、『この勝利は河崎土佐守基家の信奉する八幡神の加護である』としました。在の『金王八幡宮』です。
境内の風景
その時、源義家の勧請で、この地に城を構えていた基家によって寛治6年(1092年)に創建されたのが現在の『金王八幡宮』です。その後、河崎基家の子の河崎重家が御所(天皇のお住まい)で盗賊を退治し、その手柄によって相模国高座郡澁谷庄(現在の神奈川県大和市・藤沢市・綾瀬市にまたがる地域)と澁谷という姓を賜りました。
金王八幡宮・社殿
このことによって、武蔵谷盛庄も渋谷と呼ばれるようになり、居城も渋谷城と呼ばれるようになりました。渋谷重家には嫡子がなく当神社に祈願したところ、大神の御神徳により渋谷金王丸常光(しぶやこんのうまるつねみつ)のちの土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)を授かりました。金王丸は平治物語・吾妻鑑(あずまかがみ)などにみられる通りの活躍をしました。
金王八幡宮・社殿
当神社は、当初は『渋谷八幡宮』と言っていましたが、金王丸の名声に因んで『金王八幡宮』と称するようになりました。また、境内の金王桜(渋谷区指定天然記念物)は、源頼朝が金王丸の忠節を偲んで鎌倉亀ケ谷の館からこの地に移植したもので、一重と八重が混じって咲く珍しい桜で、江戸三名桜に数えられました。
金王八幡宮・社殿
江戸時代には竹千代(徳川家光)の教育役の青山伯耆守忠俊(あおやまほうきのかみただとし)と乳母の春日局(かずがのつぼね)が三代将軍就任を当神社に祈願し、その願いが成就したのは大神の神慮によることとし、現在の社殿および神門(渋谷区指定文化財)を寄進されました。時代は変わりましたが、現在も青山・澁谷の氏神様として数多の崇敬を集めています。
金王八幡宮・社殿
薩摩渋谷氏 河崎重家の孫の渋谷光重は宝治合戦の恩賞として頼朝より薩摩国の高城(たき)郡、東郷、入来院、祁答院を下賜(かし)されました。そこで、光重は宝治2年(1248年)、長男の重直のみを相模に残し、二男以下の男子5兄弟を薩摩に下向させ、東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城を統治させました。
金王桜
渋谷氏はそれぞれの領地で勢力を張りましたが次第に島津氏に屈して行きました。入来(現在の薩摩川内市入来町)に城を構えていた入来院氏も勇猛な武家ながら、戦国時代末期になると、ついに島津の力に屈し、統治していた地方のほとんどを献上し、島津氏の門閥に下ります。
宝物庫内部
しかしながら、入来の地を安堵された入来院氏は重聡のとき娘『雪窓』を島津貴久の嫁に出すなどして島津の一族となり、入来院による入来の統治は明治2年(1869年)に領地を返還するまで続きました。一家の領主が 620年にわたり、同一地域を治めるのは日本でも珍しく、肥後人吉(現在の熊本県)の相良氏と並ぶ歴史を持っているといわれます。
宝物庫内部
算額(さんがく) 算額は古代中国から日本に伝えられて、独自の発展を遂げた和算の絵馬です。算額(さんがく)は、自ら作った問題を絵馬に記し、それを見た者が解答を試みるもので、神社や寺院に奉納されました。添えられた図の多くは着色されており、装飾的な傾向から、目立ちやすく学業成就の祈願のほかに、難問を提起して名を広めようとする意図がありました。
元治元年(1864年)奉納の珍しい扇形の算額
日本人は、元来どのようなもにも魂が宿る、神様が宿っているという信仰を有し、自分が成し得たことも『神のご加護によること』と驕り高ぶることなく精進を重ねました。高い水準の技術を身につけた算家をしても、神様への感謝、慎みの心を持ち、その思いを美しい図案・彩色あるいは形状の『算額』に表現し奉納したのでしょう。(以上、金王八幡宮の説明文から抜粋)
嘉永3年(1850年)奉納の算額
金王八幡宮は、22年の歳月をかけて日本独自の暦法を完成させた実在の人物、安井算哲(後の渋川春海)の生涯を描いた沖方丁著の小説『天地明察』(2012年映画化)に物語の冒頭から出てきます。主人公が江戸での定宿にしている会津藩屋敷から早朝籠を飛ばして行く先は、渋谷宮益坂にある金王八幡。そこにある算術絵馬(算額)を見るためでした。
安政6年(1859年)奉納の算額
 
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