清水磨崖仏が彫られている岸壁 |
磨崖仏(まがいぶつ) 磨崖仏は、そそり立つ岩壁や岩壁を龕状に彫った内側に刻まれるなど、自然の岩壁や露岩、あるいは転石に造立された仏像を指す。切り出された石を素材に造立された石仏(独立石仏)は移動することが可能であるが、磨崖仏は自然の岩壁などに造立されているため移動することができない(Wikipediaより)。龕(がん)とは、石窟や家屋の壁面に、仏像・仏具を納めるために設けたくぼみのこと。 |
清水磨崖仏群の説明板 |
清水(きよみず)磨崖仏 清水磨崖仏群は、清水川ほとりの高さ約20mの崖に約500mにわたって彫られています。現在200基が確認されており、線で彫った『線刻』が多いのが特徴です。 最初に磨崖仏が彫られたのは平安時代の終わり頃で、そのあと鎌倉、室町、明治の各時代にそれぞれの想いを込めて彫られています。その規模の大きさや仏教的価値の高いこと等から、昭和34年に鹿児島県の指定文化財に指定されています。(南九州市教育委員会の案内板より) |
鎌倉時代の磨崖仏 |
鎌倉時代の磨崖仏 清水磨崖仏群には、平安時代から明治時代の約800年間に200体の供養塔や仏像が彫りこまれました。特に鎌倉時代は、色々な供養塔や梵字(ぼんじ)が、もっとも多く彫刻された時代です。鎌倉時代の彫刻の特徴は、線で彫った『線刻』の彫刻が多いことです。室町時代よりあとの時代のものは、立体的な『浮き彫り』で彫られています。ここに彫られている宝筺印塔(ほうきょういんとう)や五輪塔などから、亡くなった人を色々な形の塔で供養するという、鎌倉時代の様子を知ることができます。このように清水磨崖仏群には、遠い鎌倉時代の人々の考え方や生活が刻まれています。(南九州市教育委員会の案内板より) |
室町時代の磨崖仏 |
室町時代の磨崖 室町時代に彫られたものは、ほとんどが五輪塔ですが、ほかに板碑や仏像もあります。 この時代の彫刻の特徴は、小型で立体的な「浮き彫り(陽刻)」で彫られていることです。その前の鎌倉時代のものは、線刻で彫られています。 |
室町時代の磨崖仏 |
室町時代の供養塔は、自分の供養を、死ぬ前に自分で済ませておくという「逆修思想」の影響を受けていて、並んで彫られた夫婦のものと思われる五輪塔もあります。このように清水磨崖仏群には、その時代の人々の考え方や習慣が刻まれています。(南九州市教育委員会の案内板より) |
大五輪塔 五輪塔は、亡くなった人の供養のために作られるもので、日本では平安時代の終わり頃から、石や木や崖面などに作られています。清水磨崖仏群には、現在約200基の供養塔、仏像の梵字が彫られていますが、この大五輪塔はその中でも最も古く、最も大きなもので、日本一の大きさです。彫刻されたのは、平安時代の終わり頃から鎌倉時代の初め頃と考えられています。下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪という五つの形でできていて、これは仏教で、世界をつくる五つの要素と考えられていたものです。またそれぞれ梵字が彫られていて、下から『ア、バン、ラン、カン、キャン』と読み、一つのお経になっています。 |
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大五輪塔を囲む五角形のものは『板碑』と呼ばれる塔で、五輪塔上の円の中には、大日如来をあらわす『バン』という梵字が彫られています。また、板碑と五輪塔の間には約10cm四方のマス目があり、中に墨でお経と思われる五千字以上の梵字が書かれていたと考えられていますが、今ではほとんどが消えてしまいました。このようにこの大五輪塔は、優れた仏教の思想を表現していますが、今のところ誰が何のために彫ったのかなど詳しいことはわかっていません。(南九州市教育委員会の案内板より) |
三大宝筺印塔 |
三大宝筺印塔 これは宝筺印塔(ほうきょういんとう)という塔で、もとは宝筺印というお経を収めていたものでしたが、鎌倉時代から亡くなった人の供養のために建てるようになりました。この3つの宝筺印塔は、鎌倉時代後期の永仁4年(1296)3月13日に彫刻されました。清浄という女性が亡くなって49日目の供養のために、平重景という人によって彫られたものです。このことは、右と中央の塔の間に墨書きと彫刻で書かれています。この宝筺印塔の彫られた背景には、「輪廻転生」という考え方があるといわれています。また、この清浄という女性を供養する別の宝筺印塔が、清水川下流側の入り口近くにも彫刻されています。 |
三大宝筺印塔 |
それは死後35日目の供養のためのもので、平家幸という人が同じ年の2月28日に彫っています。 こんなに厚く供養された清浄という人は、当時川辺を治めていた河邊氏の領主の母親か妻ではないかと考えられています。これらの宝筺印塔は、彫刻された時期や目的、彫刻した人が記録されており、詳しいことがわからない磨崖仏が多い中で、とても貴重なものです。また、同じ人の供養のために、これほどたくさんの宝筺印塔が奉納されているのも、とてもめずらしいことです。(南九州市教育委員会の案内板より) |
連刻板碑 |
連刻板碑 板碑は、五輪塔や宝筺印塔と同じく、亡くなった人々の供養のために建てられる供養塔です。板碑は、清水磨崖仏群にはあまり彫られておらず、彫った人や目的もよくわかっていません。この連刻板碑は、16基の板碑が連続して彫られています。今は表面が風化してよく見えませんが、一基づつに梵字が彫られていたようです。その形の特徴から、鎌倉時代の終わり頃の時期のものと考えれています。それは、英仁4年(1296)の三大宝筺印塔などの線刻宝筺印塔群と同じ頃に彫られたと考えらえています。 |
吉田知山の彫った磨崖仏 清水磨崖仏群に最後の磨崖仏を彫刻したのが、吉田知山(1842〜1898)という旅のお坊さんで、「十一面観音像」「阿弥陀如来像」「宝筺印塔」の3つを、明治28年(1895)に彫刻しています。線で彫ったものが多い清水磨崖仏群の中で、知山が彫ったものは全て浮き彫りで彫られています。この十一面観音は、奈良県長谷寺の本尊と同じ姿をしており、知山が長谷寺と関係があったことがわかります。川辺町内には長谷寺式の木製十一面観音増が、清水磨崖仏群と川辺町高田城の前の観音堂にありますが、全て知山の手によるものです。ここの宝筺印塔と同じ形で木製のものも、当時知山が宿泊していた川辺町神殿の末吉家に残されています。 |
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十一面観音像 |
知山は、大阪の出身で、滋賀県延暦寺や長野県善光寺、京都府清水寺などで修行をし、川辺町にやって来ますが、いつ頃来たのかはっきりしません。ただ、明治24年(1891)に川辺町神殿の末吉家にいたことは、知山が彫った仏像を入れる箱の裏に書いてあることからわかっています。この末吉家には、今でも知山が作った仏像や木製の宝筺印塔、釈迦来迎図などの仏画、知山の位牌が残されています。その後知山は、曽於郡大隅町に移り、大隅町月野にも磨崖仏群を彫刻しています。 |
月輪大梵字 この月輪大梵字は、鎌倉時代の弘長4年(1264)に、彦山(今は英彦山)のお坊さんが彫刻しました。江戸時代の古い記録によると、梵字は5つあったことがわかっていますが、現在は3つしか残っていません。向かって右側にあった2つが崩れて落ちたと思われています。残っている梵字は、左から『カーン』『ケー』『バイ』と読み、それぞれ『不動明王』『計都星(彗星)』『薬師如来』を表しています。『薬研彫り』と言われる彫り方で彫られていて、とても美しい形をしています。最近、落ちた2字が図のように推定されました。薬師如来を中心にして、両側の不動明王・毘沙門天が、計都星・羅ごう星の2つの星を挟むように並べられています。 |
月輪大梵字 |
計都星は彗星を、羅ごう星は日・月食星を表していて、彗星も日食・月食も昔の人たちにとって、とても不吉なことでした。またこの大梵字が彫られた年に、史上最大の彗星が見えたことと、2回の月食があったことがわかっています。これらのことから月輪大梵字は、薬師如来と不動明王、毘沙門天の仏の力で不吉なことを封じ込めようとして彫られたのではないかと思われています。この大きな梵字を、こんな高い所に彫刻できるような人は、強い力を持っていて、しかも仏教にとても詳しい人だったと思われていますが、そういう人がいたという記録は残っていません。 |
清水岩屋公園(きよみずいわやこうえん) 南九州市の市営公園。公園の水は清水篠井手用水の水源として疏水百選[1]に選定されているほか、公園前の万之瀬川下流には、1985年(昭和60年)に名水百選に選ばれた『清水の湧水』があり、『心やすらぐ清水の里』として水の郷百選にも選定されています。 |
公園は『清水磨崖仏』を中心として設置されており、公園の前には二級河川・万之瀬川(まのせがわ)が流れ、池の畔には金閣寺を模して川辺特産の仏壇の技術を利用して作られた『桜の屋形』、研修施設『清流の杜』、キャンプ場やプールがあります。 |
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池の畔に建てられた『桜の屋形』は、カフェと展望室を兼ねています。公園の広い敷地内には約800本の桜が植えられており、春には華やかに咲き乱れ、花見客で賑わいます。また、広い芝生には遊戯具が備え付けられていて、子供たちの格好の遊び場となっています。 |
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公園内には、万之瀬川のほとりの地形を活かしてつくられたキャンプ場(ロッジ12棟、常設テント31張、フリーテントサイト6区画)があります。ロッジには風呂、台所、テレビなど完備されています。キャンプ場は、12月29日〜1月3日の休業期間を除いて一年を通じて利用が可能です。 |
ここを訪ねたのは子供たちが夏休みに入った7月下旬でした。2連アーチの橋から川を見下ろすと、自然流水の中で子供たちが水泳や水遊びを楽しんでいました。農薬や生活排水によって川が汚染されだして川の自然流水での水泳や水遊びは珍しいことになっています。この川はいまも清流だということです。 |
福永耕二(1938 〜 1980)
鹿児島県南九州市川辺町生まれ。ラ・サール高校在学中に水原秋桜子の主催する俳誌「馬酔木(あしび)」に投句。鹿児島大学在学中、20歳で初巻頭。1965年に上京、千葉県の私立市川高校に勤務。1971年にわずか32歳の若さで馬酔木編集長を務めるも、1980年に42歳の若さで志半ばにして死去。 清水岩屋公園と千貫平公園に句碑があります。
雲青嶺母あるかぎりわが故郷 (南九州市頴娃町の千貫平公園)
風と競ふ帰郷のこころ青稲田 (南九州市川辺町の清水岩屋公園) |
南九州市では、福永耕二を偲んで毎年、「南九州市かわなべ青の俳句大会」を開催していており、命日の12月4日の前後に受賞の式典が行われます。第14回の今年(2012年)は、鹿児島県内外の小中高学校等の6万人をこえる児童生徒から11万に近い句の応募がありました。 |
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