レポート | ・俳人 福永耕二 |
− 俳人 福永耕二 − |
||||
俳句に興味を持たなかったら、福永耕二(ふくなが・こうじ)という人のことを知ることはなかったかも知れません。俳句のほんの基本的な約束事をよりどころに、十七音を並べてみるのですが、どうもうまくゆきません。これではいけないと思い立ち、NHKの俳句入門の通信講座を受けることになって、一つの句に出会いました。 白南風や帰郷うながす文の嵩(かさ) 福永 耕二 夏の季語「白南風(しろはえ、しらはえ)」は、梅雨明け後あるいは梅雨の晴れ間に吹く南風のことで、天が明るくなるのでそう言います。「毎年、夏休みには大きなリュックサックに仕事を一杯つめ込んで、太陽の国鹿児島の両親のもとに帰省していました。今年もまた、母の便りがしきりに届きます。」と、俳人・古賀まり子先生の解説があります。福永耕二という人のことを初めて知った句でした。 薩摩半島南部の特攻の町、武家屋敷の町・知覧の隣りに川辺(かわなべ)という町があります。この町も仏壇・仏具の製造や磨崖仏の遺跡など、歴史的由緒のある町です。福永耕二(1938〜1980)は、この川辺に生まれ、ラ・サール高校(鹿児島市)に進みます。高校在学中に俳句に魅せられ、その当時俳句の第一人者だった水原秋櫻子(しゅうおうし)の主宰する俳誌「馬酔木(あしび)」に投句を始め、鹿児島大学在学中には、20歳の若さで「馬酔木」の巻頭を飾るまでになります。 大学卒業後、地元で教職に就きましたが、水原秋櫻子のもとで俳句を学びたい気持ちを押さえ難く1965(昭和40)年に千葉県の私立市川高校へ転任します。1970(昭和45)年に「馬酔木」同人となり翌年にはわずか32歳の若さで「馬酔木」編集長を務めます。その頃、句集「鳥語」を発刊し、高い評価を得ます。1981(昭和56)年に、第二句集「踏歌」で俳人協会新人賞を受賞しますが、そのときすでにこの世を去っていました。豊かな才能と旺盛な創作意欲を持っていた福永耕二は、1980(昭和55)年に42歳の若さで志半ばにして死去しました。 新宿ははるかなる墓碑鳥渡る 福永 耕二 渡り鳥になって新宿の街を俯瞰(ふかん)しています。高度成長の日本を象徴するがごとき高層ビル群が墓碑のように見えたのしょう。鹿児島では、集落ごとに墓碑を一箇所に集めて墓地をつくっています。故郷の墓地がダブって映ったのかも知れません。はるか遠く離れた故郷の友人の鎮魂の句とも言われています。福永耕二は、この句を詠んだ二年後にこの世を去ります。 1972(昭和47)年に、鹿児島にいる父を亡くしました。父への思いとともに、一人残した母親と故郷への思いを多くの句に詠んでいます。温かい人間性が表出する句です。 雲青嶺母あるかぎりはわが故郷 福永 耕二 母の日の来るよ不幸を量(はか)るため ひとり棲(す)む母を侮(あなど)り袋蜘蛛 福永耕二は、多忙ながら家族をこよなく愛し、愛息をよく吟行に同伴したそうです。子供や妻へのいたわり、愛情を詠んだ句もたくさんあります。 子との距離はいつも心に磯遊び 福永 耕二 入学の子に見えてゐて遠き母 子に教ふ絵本のほたる巨(おお)きけれ 子を寝かしつけに、妻が子供の蚊帳(かや)に入ったのでしょう。蚊帳を通して薄っすらみどりに見えます。そして、髪をしぼる妻。妻の美しさと愛おしさの再発見があります。 子の蚊帳に妻ゐて妻もうすみどり 福永 耕二 泳ぎきし髪をしぼりて妻若し 川辺町では、福永耕二を記念して毎年、「こども青の俳句大会」を開催しています。命日の12月4日の前後に受賞の式典が行われ、鹿児島県内はもちろん他県からも二万五千以上の句の応募があるそうです。 (文中敬称略) 【用語】 ・俯瞰(ふかん)=鳥のように、空中から地上を見おろすこと。 【備考】 ◆この記事は書くにあたって、下記の書籍を参考にしました。 ・NHK学園生涯学習通信講座俳句入門テキスト『四季の作品観賞』(非売品) ・福永耕二句集『踏歌』/福永耕二著/邑(ゆう)書林/1997年11月発行 ◆句集として下記の書籍もあります。 ・句集『福永耕二(俳句・評論・随筆・紀行)』 福永美智子編/(有)安楽城出版/1989年12月発行/定価¥2,000+送料 → http://www.kazubooks.com/?pid=106324687 |
||||
|
||||
2005.06.15 | ||||
|
||||
− Copyright(C) WaShimo AllRightsReserved.− |