北ノ庄城の石垣遺構 |
北ノ庄城 |
天正9年(1581年)、北ノ庄を訪ねて来たポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、本国宛ての書簡で『此の城(北ノ庄城)は甚だ立派で、今、大きな工事をして居り、予が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである・・・・』と報告しているそうです。
また、羽柴秀吉が勝家を攻めたときに、その戦況を小早川隆景に報じた天正11年5月15日付の書簡の中では、北ノ庄城について『城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候・・・・』と記しており、九層の壮大な天守閣であったことが知られています。 |
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柴田勝家( 〜1583年) |
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勝家は尾張国愛知郡に生まれ、織田信長の重臣となる。天正3年(1575年)8月、越前一向一揆を滅ぼした信長は、越前の大部を勝家に与えた。勝家は北ノ庄に城郭を築き、壮大な天守閣を造営した。信長の亡き後、天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れた勝家は、同月24日北ノ庄城にて、妻のお市の方とともに自害した。墓はお市の方とともに、福井市左内町の西光寺にある。享年62歳と伝えられる。
下の肖像画は、北ノ庄落城の折、勝家が描かせ、息子勝春に託したものとして、築後(福岡県)柳川(河)藩に仕えた柳川柴田家が伝えたものだといわれています。 |
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柴田勝家肖像画
(原本:個人像(福井市立郷土歴史博物館保存))
北ノ庄城址公園にて撮影 |
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