『 江(ごう)〜姫たちの戦国〜』
          ゆかりの地を訪ねて(2)
 
 
 
北ノ庄城 〜 西光寺 − 福井県福井市
夫・浅井長政が小谷城で自害したのち、兄の織田信長に帰還したお市の方は3人の娘ともども、兄の織田信包の庇護を受け、9年余りを尾張清洲城(愛知県)で平穏に過ごします。そして、本能寺の変で信長が没すると、お市の方は同年の天正10年(1582年)、柴田勝家と再婚し越前・北ノ庄城に移りました。しかし、新婚生活の平穏な日々はわずか10ヵ月しか続かず、勝家が賤ヶ岳合戦で羽柴秀吉に敗北すると、燃え盛る北ノ庄城内から3人の娘たちを落とし、自らは勝家と共に自害して果てました。時に、お市の方37歳、勝家62歳。かつて北ノ庄城の本丸があった跡だといわれる柴田神社(北ノ庄城址公園)と勝家、お市の方の墓がある西光寺を訪ねました。                    (旅した日 2010年12月)
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北ノ庄城址公園(柴田神社)
柴田勝家像
慰霊碑
に神社がつくられ、『柴田神社』とされました。その後、大火や戦火、福井地震により社殿を焼失し、そのたびに氏子によって再建されました。平成10年より、老朽化した社殿および境内社・稲荷神社が建て替えが行われ、新たに境内社・三姉妹神社がつくられました。それにあわせて福井市による境内の発掘調査が行われ、北ノ庄城の石垣の一部が発掘されて、この地が伝承通り北ノ庄城の跡地であることが判明し、境内は北ノ庄城址公園として整備され、発掘された石垣が展示されています。            〜ウィキペディアより
  柴田神社 
柴田神社(しばたじんじゃ)は、戦国時代の武将・柴田勝家を主祭神とし、妻のお市の方を配祀する神社で、福井駅の南西300m程の、足羽川の北側に鎮座しています。境内には、お市の方の3人の娘を祀る三姉妹神社もあります。鎮座地は、勝家の居城であった北ノ庄城の本丸跡地と伝えられており、つくられた時代は不明ですが、勝家・お市の方を祀る石祠があり、北ノ庄城の跡に築かれた福井城内の神祠として保護されてきました。明治23年(1890年)、旧福井藩主・松平春嶽、旧藩士、住民らの発意により小祠のある場所
お市の方像
柴田神社を鳥居から見る
 
 お市の方と三人の娘 
お市の方像
お市の方( 〜1583年) 
お市の方は、織田信長の妹で絶世の美人といわれ、政略的婚姻により近江の小谷城主浅井長政(あざいながまさ)に嫁ぎ、1男3女をもうけた。浅井長政が小谷城で自害ののち、天正10年(1583年)10月、3人の娘を連れて柴田勝家に嫁ぐが、勝家は翌年4月24日羽柴秀吉に滅ぼされた。勝家はお市の方に娘たちと共に城をでるように諭したが、お市の方は娘3人を秀吉の陣におくったのち、北ノ庄城で夫婦静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害した。享年37と伝えられる。
『お市の方肖像画』(原本:高野山持明院蔵)
北ノ庄城址公園にて撮影
 お初( 〜1633年) 
お市の方の二女お初は、姉茶々と妹のお江とともに秀吉に引き取られ、のちに従兄弟の京極高次に嫁ぎ忠高をもうける。高次は慶長5年(1600年)関ヶ原合戦ののち、若狭国小浜城主(所領9万2千石)となる。慶長14年お初は夫と死別後、剃髪して常高院と号した。この頃からたびたび淀殿を訪ねている。大阪の陣には徳川家康の命を受け大阪城に使者として入り、姉淀殿と和平の交渉をした。寛永10年(1633年)8月27日江戸において死去。享年66歳と伝えられる。
 お江(ごう)(1573〜1626年) 
お市の方の三女お江は豊臣秀勝などと再婚を重ねた後に、徳川二代将軍秀忠の正室となる。秀忠との間には7人の子宝に恵まれた。長男家光は三代将軍に、次男忠長は駿河大納言となる。長女千姫は淀殿の長男秀頼の夫人になり、次女珠姫は加賀藩前田家の養女、三女勝姫は福井二代藩主松平忠直に嫁いでいる。四女初姫は京極忠高、五女和子(東福門院)は後水尾天皇に嫁ぎ中宮となる。寛永3年(1626年)9月15日江戸城において生涯を終えた。享年54歳。
茶々(淀殿)( 〜1583年) 
茶々はお市の方の長女で、淀殿とも呼ばれた。秀吉の側室となって寵愛を受け秀頼をもうけた。秀吉は茶々の母・お市の方に憧れていたとされ、三姉妹の中では母の面影を一番よく受け継いでいた長女の茶々を、側室に迎えたといわれる。秀吉の死後は秀頼の後見人として豊臣家の家政の実権を握った。慶長19年(1614年)徳川家康の大軍と交戦することになり、翌元和元年5月8日、秀頼とともに大阪城中で自害した。享年49歳と伝えられる。
茶々(淀殿)
 お初
 お江
 北ノ庄城
北ノ庄城 想像図(福井ライオンズクラブ会員・東郷靖夫模写)
出典/西ヶ谷恭弘著・イラストレーション香川元太郎「復元図譜 日本の城」1992年 理工学社
北ノ庄城址公園にて撮影
北ノ庄城の石垣遺構
北ノ庄城 
天正9年(1581年)、北ノ庄を訪ねて来たポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、本国宛ての書簡で『此の城(北ノ庄城)は甚だ立派で、今、大きな工事をして居り、予が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである・・・・』と報告しているそうです。
  
また、羽柴秀吉が勝家を攻めたときに、その戦況を小早川隆景に報じた天正11年5月15日付の書簡の中では、北ノ庄城について『城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候・・・・』と記しており、九層の壮大な天守閣であったことが知られています。
  柴田勝家( 〜1583年) 
勝家は尾張国愛知郡に生まれ、織田信長の重臣となる。天正3年(1575年)8月、越前一向一揆を滅ぼした信長は、越前の大部を勝家に与えた。勝家は北ノ庄に城郭を築き、壮大な天守閣を造営した。信長の亡き後、天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れた勝家は、同月24日北ノ庄城にて、妻のお市の方とともに自害した。墓はお市の方とともに、福井市左内町の西光寺にある。享年62歳と伝えられる。
 
下の肖像画は、北ノ庄落城の折、勝家が描かせ、息子勝春に託したものとして、築後(福岡県)柳川(河)藩に仕えた柳川柴田家が伝えたものだといわれています。
柴田勝家肖像画
(原本:個人像(福井市立郷土歴史博物館保存))
北ノ庄城址公園にて撮影
北ノ庄城址公園と縮小再現された九十九橋(つくもばし)
柴田勝家公の事蹟の一つとして、北ノ庄城址公園に縮小して再現されているもので、石橋の欄干部分は往時の旧石材を使用している。九十九橋(つくもばし)は、福井市の足羽川下流部に架かる橋で、勝家公が半石半木(半分が石造で半分が木造)の橋としたと伝えられています。
 
西光寺
柴田勝家とお市の方の墓
墓の説明
墓の石碑には、次のようにあります。
  
『天正三年、越後の国主として北の庄に赴任した勝家公は、岡の庄(岡保)天台宗西光寺に帰依し、自らの菩提所と定め民生安定の根本道場とするため当地に移し保護した。この墓は、豊臣家の祐筆山中山城守(名長俊)の手によって建立されたと伝えられる。』
  
また『愛用の梅の木』(写真右)は、勝家公が生前に愛用したと伝えられたもので、昭和二十年戦災により焼失したが不思議にも後日発芽したものだそうです。『北ノ庄城礎石』(写真下)は、明治7年に北ノ庄城濠跡を整地した際に発掘されたもの。
  西光寺
西光寺(さいこうじ)は、天台宗真盛派の祖である真盛上人を開祖とする柴田勝家の菩提寺で、元々は福井市次郎丸の山麓にありましたが、柴田勝家公の北ノ庄築城に際し、北ノ庄に移転させられ、現在も福井市の左内町に在ります。秀吉軍に攻められ、北の庄城で命を絶つに先立ち、3人の姉妹の将来などを住職に託したと伝えられる。境内には勝家とお市の方の墓があり、勝家の自筆の書や刀剣、金の御幣の馬標、1874年(明治7)に発掘された北の庄城の鬼瓦などを展示する柴田勝家公資料館があります。
柴田勝家公愛用の梅
北ノ庄城礎石
 
 【参考にした資料およびサイト】
本ページの記事は、北ノ庄城址公園(柴田神社)および西光寺の案内板の説明文のほか、ウィキペディアの柴田勝家、お市の方のページなどを参考にして書きました。
        
 レポート ・お市の方
    
   
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