♪平均律第12番(バッハ)
Piano1001

   
   
旅行記 ・喜界空港(旧海軍航空隊喜界島基地) − 鹿児島県喜界町 2009.08
 
       
喜界空港
大きさがコンビニぐらいの喜界空港ターミナル
鹿児島から南へ約380km。奄美大島の東方約25kmに位置する喜界島の空の玄関口、喜界空港は鹿児島空港間に1日2往復、奄美空港(奄美大島)間に1日3往復のJAC(日本エアコミューター)のサーブ機(36席のプロペラ機)が就航している地方管理空港です。
鹿児島空港から到着したばかりのサーブ機(36席)
前身は、昭和6年(1931年)に開設された旧海軍の飛行場で、太平洋戦争では前線基地として、そして沖縄に向う特攻機の中継基地として使用された歴史を持つ空港です。夕刻の薄暮の中を本土から飛来した特攻機はこの飛行場で給油や整備を行い、翌日の明け方沖縄へ飛び立っていきました。
前身は旧海軍の飛行場で、太平洋戦争中は前線基地として利用されました。
スギラビーチ
透きとおった海には熱帯魚が泳ぐスギラビーチ
喜界空港の西南西から東北東に走る1200mの滑走路の北は、鉄条網を隔てて空港臨海公園になっています。その公園内の西南西の端にあるのがスギラビーチです。
スギラビーチに建つ銅像
スギラビーチは、サンゴのリーフに囲まれた天然のプールのような海水浴場で、潮の干満に関係なく泳ぐことができます。250メートルの真白な砂浜に、透き通った海には熱帯魚も泳いでいます。
いまわしい戦争の歴史などとは無縁であるかのような海の色です。
戦没者慰霊之碑
碑文
喜界島海軍基地は、昭和19年(1944年)国土防衛の最前線基地として拡張整備され、7月海軍巖部隊が常駐することになった。翌20年、米軍沖縄上陸後は、戦争遂行上の最重要戦略基地として、連日連夜にわたって米軍機の猛爆撃を受けながら、特攻機の整備出撃に多大の貢献をした。しかし、その間莞爾として沖縄に向け飛び立ち、遙か征って帰らざる壮途につかれた若き勇士たちをはじめ、巖部隊員で特攻機の出撃準備中の整備兵防空防衛の任務遂行中の砲台員等で戦死された人達も多かった。ここに基地開設50周年にあたり、これら戦死者の霊を慰めるとともに、永久の平和を祈念して慰霊碑を建立するものである。 
  
  平成6年  
旧海軍航空基地戦没者慰霊之碑建立期成会。
〜現地の碑文より
慰霊碑は、西南西から東北東に横たわる空港臨海公園内のほぼ中央に建てられています。
左手に喜界空港の滑走路が、右手に公園越しに海が見渡せます。
戦闘指揮所跡
町指定記念物(史跡)
戦闘指揮所跡
大東亜戦争(第二次世界大戦)遂行のために形成され、建造物として残されたものである。地域の歴史資料として、戦争という史実を通して日本の加害や被害の跡を実物を以って確かめてもらうために、戦争遺跡という視点から戦争を語り継ぐ具体的な建造物として保存するものである。喜界島の飛行場は海軍航空基地で、昭和20年米軍が沖縄上陸後、戦争遂行上の最重要基地として連日連夜にわたり米軍機の猛攻撃を受けた。薄暮本土から飛来し、翌日払暁沖縄へ飛び立つ特攻機の整備をした飛行場で、この建物の中で戦闘の指揮をしたと言われている。〜現地案内板より
喜界空港ターミナル広場を出て左折した位置から見る喜界島のメインストリート(写真上)の手前右の路地を入ると、民家の垣根に『戦闘指揮所跡』の案内板(写真左)が立っていました。『戦闘指揮所跡』は、大きな榕樹(ガジュマル)がおおいかぶさるようにして、民家の庭先にありました(写真下)。下の写真に写っているコンクリート建造物には向こう側にも入口があり、入口から階段を降りる中は地下壕になっていました。
特攻花
(テンニンギク)
空港の西南西の外側周辺一面に咲いている『特攻花』(テンニンギク)。
8月15日の終戦記念日を控えた夏のこの時期、喜界空港の周辺そして飛行機が離着陸をする滑走路周辺一面、『特攻花』と呼ばれるテンニンギク(天人菊)の花が咲き誇ります。直径が3〜5センチの黄色い縁取りのある濃赤色の花です。
黄色い縁取りのある濃赤色の花です。
もともと島にはなかった花ですが、特攻隊員の誰かが島に種を持ち込み、飛び立つときに滑走路の周辺に記念に撒いたもので、その芽が吹き、滑走路のまわりにたくさん咲くようになったのだとか、
鉄条網の外側に沿って咲く特攻花。
この基地から死の飛行に飛び立つ若き特攻隊員たちに島の娘たちが情をこめて花束にして贈ったテンニンギクの種子が落ちて芽生え、現在の花園になったのだとか言われています。
滑走路の芝生にもすきまなく特攻花が咲いています。
島の人たちは、『特攻花』と呼び、鎮魂の花、平和を願う花として大切にしています。
『特攻花』の由来(現地説明板)
  
    
【編集後記】
テンニンギクを『特攻花』と呼ぶことに対して、真実の特攻花はあくまでも『桜』だという反論があります。確かに、島の娘が特攻隊員に贈った種子が落ちて芽生えたという説がある一方で、戦時中に基地の補修にあたった人の中には、テンニンギクは戦前からここに咲いていて、ヤグルマソウと呼ばれていたと話す人もいるようです。戦後になって、特攻隊員が飛び立った飛行場を赤く染めるテンニンギクの姿に、誰ともなく『特攻花』と呼ぶようになったのかも知れませんが、一面テンニンギクが咲き誇っている風景を目にすると、『特攻花』と呼び、鎮魂の花、平和を願う花として大切にしたいという島の人たちの思いがわかる様な気がします。
  
 特攻花  5分間のフライト 〜 喜界空港     喜界島
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