♪花の歌(ランゲ)
ぴあんの部屋
喜界島鹿児島県大島郡喜界町
                        (
鹿児島から南へ約380km。奄美大島の東方約25kmに位置する喜界島へは、鹿児島空港から日本エアコミューターのサーブ機(座席数36のプロペラ機)で約1時間10分のフライトです。周囲50km、面積約57平方kmの島に、サトウキビ栽培を主産業として8,200人余りが暮らす喜界島は、島の大半が隆起珊瑚からなる平らな地形で、現在でも年間に2mmずつ隆起しているといわれます。源為朝や平資盛、僧俊寛などの落人・流人伝承の地と知られ、また”南の島の貴婦人”とよばれる保護蝶オオゴマダラ(大胡麻斑蝶)の北限生息地として知られています。   (旅した日 2009年02月)
 
 
喜界島
喜界空港の搭乗口兼ターミナル
 喜界島の歴史
喜界島は、文正元年(1466年)琉球王国の侵攻を受け約150年間その統治下にありましたが、慶長14年(1609年)の薩摩藩琉球侵攻に伴い琉球から分割されて薩摩藩に属した。藩政時代には代官所が置かれ、島を6つの間切(まぎり)に分けて統治する六間切という形態で島政が行われました。明治19年(1886年)に間切制度が廃止され、湾方村、早町方村が設置。明治41年(1908年)に喜界村が成立後、二ヶ村分村を経て、喜界村が町政を施行、喜界島は喜界町と早町村になりました。
鹿児島空港より到着したサーブ機
昭和21年(1946年)第二次世界大戦終戦により周辺の奄美諸島とともに本土と行政分離されアメリカの軍政下に入りました。祖国復帰の悲願達成を叫び続け、ついに昭和28年(1953年)12月25日祖国復帰を実現、同年両町村が合併して喜界町が誕生しました。
 
      喜界町Data
 面積 56.9 km2
 大半が隆起サンゴ礁から成る島
 島の最高点 203.5 m(百之台)
 人口 8,237人
  (平成21年2月1日現在)

サトウキビの収穫
サトウキビの収穫
 サトウキビ栽培
喜界島が島津藩に属するようになると、17世紀末から18世紀初頭かけてサトウキビの単作化を強制されるようになりました。その影響もあって古くからサトウキビ栽培を中心とする農業が基幹産業の島でした。喜界島で栽培されるサトウキビは、珊瑚のアルカリ地質と珊瑚礁の地中深くからで湧き出る上質の地下水により喜界島独特の味を生み出しているそうです。サトウキビ栽培に必要な農業用水は以前は、ため池の貯水に頼り、水をタンクに汲み取りトラックで運んで散布する作業が要求されていましたが、地下
収穫されたサトウキビ 水を散布するスプリンクラー

ダムが2003年(平成15年)に完成し用水路が敷設されたことによって、パイプラインによるスプリンクラー(写真右)が可能になりました。
 
喜界島には、朝日酒造と喜界島酒造の二つの焼酎蔵元があって、喜界島のサトウキビからできた黒糖と米麹を原料に、珊瑚礁の湧水で仕込まれ蒸留された黒糖焼酎が製造されています。
 
喜界島のもう一つの農産物である白ゴマは、日本一の生産量を誇っているそうです。

雁股の泉
雁股(かりまた)の泉
『無双の弓矢の達者』といわれ、保元の乱(1156年)で活躍するも敗れて伊豆に流された源為朝(ためとも)は八丈島で切腹自害したといわれますが、一方で琉球に渡り琉球王になったという伝承があります。琉球に渡ろうとして途中で時化(しけ)に遭い、喜界島の沖合いにたどり着いたとき、島に住民がいるかどうかを確かめるために雁股(かりまた)の矢を放ち、上陸して矢を抜いたところ、そこから泉が湧き出したといわれるのがこの『雁股の泉』です。喜界島の北端部の小野津にあります。

小野津
シルバー色の低いトタン屋根が特徴の民家
小野津(おのつ)
喜界空港から車で島の西海岸を北上すること約20分。小野津集落は、喜界島の最北端に位置し、雁股の泉やムチャカナ公園など、多くの伝説や史跡が残る地区です。
望郷の碑 碑文
我が郷土小野津に生を享け小野津で育ち大志を抱き郷を出でてそれぞれに各地に雄飛した先輩の方々で現に各地で活躍して居る方々は多数いる事と思います。
琉球王朝時代の名残でしょうか、シーサーが。 望郷の碑
而して或る人は成功したでありましょうし、又或る人は志半ばにして不本意な生涯を過した方々もありましょう。然し望郷の念を抑えつつ、異郷の地に骨を埋めたであろう総ての人々、又これから続くであろう総ての若い方々も最後まで郷土小野津を愛し、小野津の発展を希っているものと思います。その心情に思いを致すときその霊魂がいつの日か再び小野津の空に遊び来たらんことを祈ってこの碑を建立する。
 
平成五年七月建之   出郷者一同
      建設協力小野津集落一同

ムチャカナ公園から一望した小野津集落
 
 
ムチャ加那公園
ムチャ加那物語
薩摩藩時代、瀬戸内町生間(いけんま)にウラトミという村一番の美人がいた。 薩摩から来た島役人は、ウラトミを島妻にしようとしたが彼女は拒み続けていた。 怒った役人は生間集落に年貢を重くするなど、さまざまなしめつけをしてきたのでたまりかねたウラトミの両親は彼女を小舟に乗せにのせ生間から流した。漂流の末、たどりついたところが小野津トゥバヤノ付近であったという。ウラトミはその地で結婚しムチャ加那を生んだがムチャ加ならない。も親に勝る美人だったという。 あまりにも美しく生まれたばかりに悲しい               
死をとげた『ウラトミ、ムチャ加那親子』の物語は民謡でも謡われ奄美民謡の代表のひとつとなっている。先人たちが厳しい生活の中で謡い継いできた奄美民謡は貴重な地域文化であり、後世に伝えていかなければならない。喜界町
         (現地、ムチャ加那の碑より)
 
小野津集落を一望する高台にあるムチャ加那公園には、奄美民謡『ムチャ加那節』にも歌われているウラトミ、ムチャ加那を偲んで、ムチャ加那の碑が建立されています。
  
  
平家上陸之地
志戸桶浜に立つ『平家上陸之地』の記念碑
平家落人伝説
地元の伝承によると、壇ノ浦の戦い(1185年)で源氏に敗れて投身したとされる平資盛(すけもり)らの一族は、1202年に喜界島に上陸し、3年間を喜界で過します。その後、奄美大島の南にある加計呂麻島(かけろまじま)に渡り、芸能や文化などを伝えたといわれます。重要無形民族文化財に指定されている『諸鈍(しょどん)シバヤ』は、平資盛が土地の人を招いて上演したのが始まりだと伝えられています。喜界島では、資盛らが喜界島から加計呂麻島に渡って800年に当たった2005年に、『平家上陸800周年』を記念するイベントが開催されたそうです。
自生のボインセチア
平家森
文治元年(1185年)壇の浦の戦いに敗れた平家一族は建仁二年(1202年)志戸樋の沖名泊に上陸し志戸樋と佐手久の境にある増花田に居城を構えた(七城と称した)ときに島の東部入口(早町港)から敵の来襲に備え、ここに要塞を築き七城とともに攻守警備の重要な拠点としたところです。背後の丘には平家一族の錬式の跡があります。昭和63年12月 喜界町(現地案内板より)
 
 
風 景
振り向いてくれた下校中の子供たち(写真上)。県道の歩道に止められた耕運機(写真下)。背後は、サンゴの石垣です。いずれも県道 619喜界島循環線の志戸桶付近で。
 
 
サンゴの石垣(阿伝集落)
 
  
 阿伝(あでん)集落の石垣
 
奄美地方の集落に見られるサンゴ(珊瑚)の石垣は、台風や潮から家々を守るために築かれた、先人の人々の知恵の産物ですが、毒蛇ハブの棲み家となりやすい欠点がありました。
 
喜界島にはハブがいないので保存状態が良く、島のいたる所でみかけられ、特に島の南東部の海岸沿いにある阿伝(あでん)集落は、よくサンゴの石垣を残しています(写真上・中・下)。
  
  
僧俊寛の墓
悟りをひらいた高僧の雰囲気のある俊寛座像
僧俊寛
1177年、鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議された平氏打倒の陰謀が密告により露見すると、俊寛は藤原成経、平康頼ととともに鬼界ヶ島へ配流されました。望郷の日々を過ごす中で、成経と康頼は千本の卒塔婆(そとば=墓標)を作り海に流すことを発心しますが、俊寛はこれに加わりませんでした。やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着くと、これに心を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮徳子の安産祈願の恩赦を行ないます。 翌1178年、船が鬼界ヶ島にやって来ますが赦(ゆる)されたのは成経と康頼のみで、俊寛は一人島にとり残されるのでした。
俊寛の墓(写真上) すぐ近くにあるスギラビーチ(写真下)
この『鬼界ヶ島』には諸説があって、喜界島、薩摩硫黄島(鹿児島県)、長崎県の伊王島が候補に挙げられていますが、坊主前(ぼうずめい)と呼ばれるこの地の墓から俊寛のものと推定される人骨と木管、装飾具が発見され、地元では俊寛配流の地として自信を深めているそうです。
 
ちなみに、中村勘九郎さんによる歌舞伎『平家女護島』が演じられたのは薩摩硫黄島です。

 
 
 
あなたは累計
人目の訪問者です。
 
Copyright(C) WaShimo All Rights Reserved.