|
客を待つ人力車 |
〜 明暦二年、蘆名家断絶のあと、角館に移ってきた佐竹義隣は公家の出身であったところから、京都を偲んで枝垂れ桜を移植した。以来、三百数十年間、ここの桜は、武家の盛衰を見詰めながら花を咲かせてきたことになる。当時はほとんどの家に桜が植えられたようだが、とくに、かつて佐竹北家の重臣であった青柳家や、側用人としてつかえた石黒家では、正面の薬医門を入った左右に枝垂れ桜の巨木がそそり立ち、満開の花に包まれた枝が長々と黒板塀まで垂れている。庭の樅や檜の緑と武家屋敷の簡素な黒板塀を背景に、天から降ってくる枝垂れ桜はいっそうあでやかである。 〜
渡辺淳一著『桜の樹の下で(上)』(新潮文庫、1992年発行)より |
|
|
内町には今も往時のままに武家屋敷が並び、600mの武家屋敷通りには昔のままの薬医門、黒板塀などと枝垂れ桜が見事に調和する武家屋敷が続き、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けています。
蘆名氏の支配は3代続きましたが、承応2年(1653年)の蘆名千鶴丸の死により断絶。代わって、明暦2年(1653年)に佐竹北家の佐竹義隣(よしちか)が角館に入り、以降明治まで11代続きました。初代・義隣は、京の公家・高倉永慶の次男で、さらに2代・義明も京の公卿・三条西実条の孫娘を室に迎えていて、角館には多くの京文化が移入されました。 |
|
|