♪花の歌(ランゲ)
ぴあんの部屋
上下町の町並み広島県府中市上下町
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広島県福山駅からJR福塩線に乗って約1時間30分。広島県東北部の吉備高原にある人口約6,800人の小さな町。町に降った雨が、北の日本海に注ぐ川と南の瀬戸内海に注ぐ川の上下に分かれて流れ出すことからそう名付けられたという上下町(じょうげまち)は、石見(いわみ)大森銀山からの銀の集積中継地として栄えた幕府直轄の天領でした。宿場町としても賑わい、幕府の公金を扱う御用商人掛け屋や清酒、醤油などの醸造を営む豪商などが現れ、この地方の政治経済の中心地として発展しました。現在でも往時の威容を偲ばせる土蔵や町屋が並び、白壁やなまこ壁などの歴史的景観が、訪れる人々のロマンをかきたてます。そんな上下の町並みの風景をアップロードしました。         (旅した日 2009年08月)
    
    
上下キリスト教会
上下の歴史
元禄11年(1698年)、福山藩水野家が後継ぎ死亡により断絶すると、幕府は検地を行い、 後任の松平氏に10万石を与え、残り5万石を直轄の天領としたました。幕府は石見(いわみ)大森銀山の銀を運搬する街道を手中にするために天領としたもので、元禄13年(1700年)、上下に天領代官所が置かれました。その後、享保2年(1717年)、うち2万石分が豊前中津藩(現在の大分県中津市)領に分割編入され狭くなったのを契機に、上下代官所は大森代官所の出張陣屋となり、江戸へ銀を運ぶ上での中継基地として重要な役割を果たすようになりました。もともと鉄や米の集積地であった上下でしたが、これをきっかけに銀をはじめ様々な物資が集まるようになり、人々の往来も増え、『宿場町』としても賑わいはじめました。やがて宿場町としての風格が整うと、役人や商人、文化人などが訪れるようになりました。こうした中で、徐々に有力な金融業者や清酒、醤油などの醸造を営む豪商が現れ始め、街は発展し活気付いていきました。
 
上下キリスト教会は、明治時代当時の上下財閥だった角倉家の倉として建築されたものを昭和25年(1950年)に上下キリスト教会が入手して改造したというユニークなものです。倉の上に建て増しされた印象的な八角形の鐘楼が町並みの美しさをいっそう引き立てています。上下のシンボル的建物の一つで、広島県文化百選に選定されています。
      
      
白壁の道
    
    
白壁の道(商店街)
上下は、大森(石見)銀山からの銀の集積中継地として栄え、代官所も置かれた幕府直轄の天領であり、この地方の政治的経済的な中心地でした。とくに現商店街は、当時、様々な店が軒を連ね賑わいを見せていました。現在でもそのころの威容を偲ばせる土蔵や町屋が並び、白壁やなまこ壁、格子窓といった歴史的景観が、ロマンをかきたてる通りとなっています。
真野眼鏡店(上) 白壁の家の二階は資料館となっており、江戸末期の長州戦争当時の武具や豪商の調度品、三葉葵の紋の入った代官所の火鉢などが展示されています。
旧角倉家外門(右) 上下財閥だった角倉家の外門で、当時の威容を偲ばせます。二階は見張り小屋となっており、正四角錐の屋根が特徴的で、白壁の紋様と二階の覗き窓がモダンな感じを与えています。
角倉菓子店(下) なまこ壁と袖卯建(うだつ)の角倉菓子店。『つちのこ饅頭』を売っていて、上下町までわざわざ買いにくる人がいるとか。
旧岡田邸 (上下歴史文化資料館)
上下歴史文化資料館(旧岡田邸)
商店街通りのほぼ真ん中にある近代的で綺麗な白壁の建物が旧岡田邸。田山花袋の小説『蒲団』のヒロインのモデルになり、みずからも女流文学者だった岡田美知代の生家で、その建物は上下を代表する町家建築でしたが、解体の危機にあったものを上下町(当時)が入手し、『上下歴史文化資料館』として再生したものです。
 
美知代は、県議や上下町長などを務めた岡田胖十郎の長女として生まれ、明治37年上京して花袋に弟子入り。それが縁で、明治中期に一世を風靡した自然主義文学の傑作といわれる『蒲団』のヒロインのモデルになりましたが、以後の彼女の人生は小説のモデルという運命の波に揺らされることになったのです。
 
上下歴史文化資料館は、当時の建物を改装して使用されていますが、明治20年代当時の梁などが活かされており、田山花袋が泊まった二階の客間は現在も当時のまま保存されています。常設コーナーとして、地域の歴史や文化財を紹介する『上下の歴史』、岡田美知代の生涯をたどる『岡田美知代の世界』、世界の昔話・絵本と上下に残る昔話に関する『昔話の部屋』などがあります。
   
   
旧家の家並み
上下という地名がユニークなら、上下町のマークもまた、なるほどとユニークなもの。横一の字の上と下に点(丶)を置いたもの(写真上)。
右から読むレトロな看板(昭和初期の銅板浮文字仕上げ)の残る(有)大成権尚旭堂薬局(写真上)。現在も営業が続けられています。隣りは旧岡田邸。重森本店(写真下)は、江戸末期の建物です。
     
     
     
旧田辺家は、江戸時代、上下が天領だった頃の御用商人掛け屋(幕府の公金を扱うところ)だったという上下最大の有力金融業者でした。明治時代に入り酒造業も営む。写真上は、上下川越しにみた旧田辺邸。写真右は、指物「濱一」という家具屋さんが旧田辺邸を買い取って家具の展示場にしてる指物濱一(サシモノハマイチ)』。喫茶店にもなっています。
吉田本店(写真下)は、明治初期に建てられた二軒連結の呉服屋で、黒漆喰のなまこ壁が重厚な感じを与えます。上下では、写真のように立派な卯建(うだつ)と呼ばれる防火対策用の壁が残っている商家跡をよく見かけます。”うだつが あがらない”という言葉は、この卯建に由来しています。妻入りの商家跡(写真左)も見られます。
      
      
旧警察署
その旧警察署の前にある『岡田屋駐車場』という看板が掲げられた建物もレトロな感じのする建物です(写真右)。
旧警察署(写真上、左)は、明治時代に建てられた建物で、見張り櫓(やぐら)が当時のまま残されている印象的な建物。現在は天領ソバなどが食べられる岡田屋という食事処になっています。
    
    
翁座

翁座(おきなざ)(写真下)は、大正時代に建てられたもので、集会、芝居、映画などの興行される劇場として賑わいました。当時の面影をとどめる劇場の建物としては、県下唯一のものになっています。戦後は、高田浩吉、大友柳太郎、鶴田浩二さんらも出演したそうです。なお、俳優の平幹二郎さんは上下高校の 出身(戦争中広島から疎開した)だそうです。翁橋(おきなはし)から翁座を見る通りもまた、いかにも上下らしい雰囲気があります(写真上)。

分水嶺のある町 上下という変わった地名は、分水嶺のある町であることに由来しているそうです。この街に降った雨は、北の日本海に注ぐ江の川と南の瀬戸内海に注ぐ芦田川の上下に分かれて流れ出します。
天領代官所跡
元禄13年(1700年)に置かれた天領代官所の跡には、現在、府中市上下支所が建てられています(写真上)が、当時のまま残された石垣が往時の名残を伝えています。
  
  
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