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旅行記 ・岩崎弥太郎生家 − 高知県安芸市 2017.04
岩崎弥太郎生家
岩崎弥太郎生家前に立つ銅像
三菱グループ源流の地 高知県東部の安芸市(あきし)。人口17,000人余り。土佐湾に沿って国道をさらに約30km東に進めばもう室戸岬。いわば四国の最果て。そんな安芸市ののどかな田園の中に三菱財閥の礎を築いた岩崎弥太郎の生家があります。岩崎弥太郎の銅像(写真上)は、1985年(昭和60)年に生誕150年を記念して江ノ川上公園(安芸市内)に建立されましたが、平成27年3月に岩崎弥太郎生家前に移設されました。
岩崎弥太郎生家
記念碑 記念碑は、1963年(昭和38年)2月、三菱グループ各社の協賛により建立されました。記念碑の刻文は、「大漢和辞典」の編纂で有名な諸橋轍次博士によるものです。背面碑分に以下のようにあります。『ここは、岩崎彌太郎が生まれたところです。彌太郎は天保5年12月11日、父彌次郎の長男として生まれました。
岩崎弥太郎生家
幼少の時は、母美和の教えを受け、成長してからは、土佐藩の参政吉田東洋の導きを得ました。彌太郎は人にすぐれて強い気性でしたが、時に応じて細かいところにも心を配り、遂には近代の一偉人として明治18年2月7日その生涯を終えました。彌太郎は、九十九商会を創設し、台湾出兵や西南の役で政府の軍事輸送を行い、外国汽船との競争にも打ち勝ち、海運業を発展させて、三菱グループの基礎を築きました。
岩崎弥太郎生家
弟彌之助や長男久彌も同じくここに生まれました。共に二代、三代の社長としてその発展につくしました。つまり、ここは三菱発祥の地でもあり、またわが国近代産業開発の記念すべき地でもあります。ここは土佐の片田舎に過ぎませんが、はるか南に太平洋を望み、彌太郎の大志がしのばれます。
日本列島をかたどった石組み
茅葺き屋根の生家と樹木は昔のままで、庭に置かれている石組みは、日本列島をかたちどり、彌太郎が世界にはばたく夢を表わしたものといわれます。先人の偉業をたたえるのは、後に続く者の務めです。私たちはここに碑を建て業績を記し、遺跡を保存して永く後世に伝えることとしました。 三菱系諸社同人建、文学博士 諸橋轍次並書。』
『水切り瓦』と『桃の花』
岩崎 弥太郎(いわさき やたろう) 天保5年(1835年)〜明治18年(1885年)。天保5年(1835年)、土佐国、井ノ口村(現在の高知県安芸市)の地下浪人の家に生まれ、子供の頃から極貧の中で暮らしました。 頭脳明敏で、12歳で儒者・小牧米山に弟子入りし、14歳頃になると詩才を発揮するようになったといわれます。を築きました。
岩崎弥太郎生家
安政元年(1854年)21歳のとき藩士の従者となって江戸へ出、 安積艮斎(あさかごんさい)の門人になりました。 帰国後、土佐藩の執政・吉田東洋を知り、後藤象二郎と親しく交わります。勝海舟が慶応元年(1865年)、長崎に『亀山社中』を設立し、龍馬たちに運営を任せました。これと並行して海運業からの多角化によって三菱財閥の基礎
 岩崎弥太郎生家
慶応3年(1867年)4月、『亀山社中』は、龍馬が脱藩罪を許されると土佐藩が引継ぎ『海援隊』となり、龍馬が隊長となりました。その海援隊の会計を担当していたのが岩崎弥太郎でした。海援隊の船『いろは丸』が、瀬戸内海、讃岐・箱の岬近くで、紀州藩船明光丸と衝突して沈没するという、いわゆる『いろは丸事件』が起きます。
三菱マークの由来
この時、後藤象二郎、龍馬、そして弥太郎が交渉にあたり、、紀州藩が7万両の賠償金を支払うこと決着しました。維新後の明治3年(1870年)10月から九十九商会(つくもしょうかい)という海運業を行う私商社の指揮者となりました。同商会は廃藩置県後1873年に三菱商会と改名し、岩崎弥太郎個人の企業になりました。
岩崎弥太郎生家
新政府の軍需輸送を独占して巨利を占め、全国汽船総トン数の73%を手中に収めました。明治10年(1877年)に勃発した西南戦争時には、 三菱の所有する汽船はほとんど軍用船として需要を独り占めにし、 これによって得た運輸代金は1300万円という莫大な額にのぼりました。 健康の衰えにより明治18(1885年)年2月50歳で没しました。以上、『土佐の人物伝 〜 岩崎弥太郎』を参考。
三菱マーク
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