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旅行記 ・岩村を訪ねて − 岐阜県恵那市  2014.02.11
岩村城址公園
復元された岩村城藩主邸・太鼓櫓(たいこやぐら)
岩村町 岩村町(旧恵那郡岩村町)は、岐阜県の南東端部に位置する恵那市の一部の地区で、愛知県・長野県とも近い位置にあります。 800余年の歴史を持つ岩村藩三万石の城下町として、今も城山に石垣を残す岩村城跡をはじめ、重要伝統的建造物群保存地区に選定された商家の町並みや数多くの旧跡を有する、情緒あふれる史跡観光の町です。そして、幕末最高の思想家・佐藤一斎の故郷です。
 太鼓櫓と表御門
岩村城址公園 江戸時代初期、時の藩主松平家乗(いえのり)公が、平和な時代になり、城主が城の山頂に住む必要がなくなったとして、城の麓に藩主邸を造営しました。以後その場所は政治の中心として機能をはたす一方、『太鼓櫓』が設けられ城下に時を知らせました。
 太鼓櫓と表御門
平成2年(1990年)、この藩主邸跡に太鼓櫓、表御門などが復元され、岩村のシンボルとなっています。城址公園にはその他、下田歌子勉学所、花菖蒲園、歴史資料館などがあります。城址公園から岩村城跡に上ることができますが、訪問した日は残念ながら、雪が残っていて城跡まで行くのは断念しました。
左の方に岩村藩校知新館正門
さとういっさい
佐藤一斎
佐藤一斎翁座像(平成14年10月完成)
佐藤一斎翁顕彰碑建立趣意
幕末最高の思想家佐藤一斎は『志こそ人間のレベルを決める!』といい、志を養うべきことを説き、その思想を著書『言志四録』(言志録、言志後録、言志晩録、言志耋録(てつろく))などに書き残しました。碑文の『三学戒』は言志晩録の一節で最も輝いている言葉です。ここに全国各地300余名の賛同者の浄財により、一斎翁の『三学戒』を刻み、永く後世に伝えんとするものです。
平成8年10月19日  佐藤一斎顕彰碑建立実行委員会 
 
碑文『三学戒』
   少而学則壮而為有。( 少にして学べば、則(すなわ)ち壮にして為すこと有り )
   壮而学則老而不衰。( 壮にして学べば、則ち老いて衰えず )
   老而学則死而不朽。( 老いて学べば、則ち死して朽ちず )  (言志晩録60条)
〔現代語訳〕 若くして学べば、壮年になって世のため、人のために役に立つことができる。壮年になって学べば、年をとっても衰えない。歳をとり老いて学べば、 死んでもその精神は(業績や名前となって)朽ちることなく永遠に残る。
岩村藩校知新館正門
 岐阜県指定史跡 岩村藩候知新館
この建物は岩村藩校、知新館の正門である。知新館は元禄15年(1702年)藩主松平乗紀(のりただ)によって創立された。美濃国において最初の藩学であり、全国的に見ても古く十指に入る。創立当時の岩村藩は2万石(後に3万石となった)の小藩でありながら、文教政策に重点をおき、有能な藩士の育成を図った。この精神は今も岩村町に脈々として生きている。江戸末期に昌平黌(校)を中心にして日本の学問をリードした林述斎、佐藤一斎等を岩村藩から出したことは決して偶然ではなく、元禄時代から知新館という藩学の土壌が培われていたからである。知新館の名称は論語の『温故知新』から採った。知新館正門の向かって左側に釈奠(せきてん)の間(ま)がある。釈奠とは孔子を祭ることで、知新館における聖廟(孔子廟)であり、常に孔子の像を配し、教授は拝礼してから授業に向かった。岐阜県教育委員会 岩村町教育委員会。〜 現地案内板より転載
 岩村本通り
(重要伝統的建造物群保存地区)
本町交差点から東へ入った町並み(後方が城跡方面)
岩村本通り 岩村町の岩村本通り(上町、中町、下町)は、平成10年(1998年)4月、岐阜県で3番目、全国では48番目に国(文化庁)の『重要伝統的建造物群保存地区(商家町)』に選定されました。岩村は江戸時代に東濃地方の政治・経済・文化の中心として栄えた城下町で、保存地区は城下町の町家地区として形成された町の形態と近代の発展過程を伝える町家群が周辺の環境と一体となった東濃地方の商家町として、特色ある歴史的景観を良好に伝えています。平成15年(2003年)には、読売新聞主催の『遊歩百選』にも『城址と古い町並み』が選ばれました。
  水野薬局の古い看板
本町通りは、本町交差点で国道363号と直交しほぼ東西に約1.3km延びています(城跡に近い上町から西へ中町、下町)。本町交差点から東へ入ってすぐ目につくのが、いかにも老舗を感じさせる薬種商『マルミ薬局』(現在の水野薬局)の看板(写真上)。マルミ薬局は、江戸時代からの薬種商で美濃・飛騨・三河まで手広く薬を卸していました。水野家には自由民権を主張した板垣退助が1882年(明治15年)岐阜で暴漢に襲われる数日前に宿泊をしたというエピソードがあるそうです。
蔵開き中の岩村醸造(株)
岩村醸造株式会社(写真上)は、1787年(天明7年)創業と伝えられる日本酒メーカー。全国新酒鑑評会では2009年、2010年と2年連続で金賞を受賞しているそうです。看板には、『恵那乃誉』とありますが、現在は『女城主』(戦国時代末期岩村城に織田信長の叔母が女城主として存在したのに由来する酒名)が主力銘柄。
  上町の上り坂
岩村町本通りは、東方の城跡の麓にあたる上手より上町・中町・下町と呼ばれ、上町には主として職人が、中町・下町には主として商人が住んでいました。上町の家は、平入りの家(屋根の棟と平行な面に出入口がある家)で、軒の水平線が段をなして続く景観が見事です(写真上)。
暖簾に、飾り花に、言志四録
岩村町の古い町並みの各家庭の軒下には、『言志四録』を刻んだ木板が掛けられています。その数は、約200に及ぶそうです。木板の左下には数字かふってあって、『名言録集』の数字と対応させてその解説を読むことができるようになっています。また、暖簾(のれん)に飾り花の光景が見られます。
地の徳(言志後録37条)
   人は地気の精英たり。地に生れて地に死し、畢竟地を離るること能わず。  (言志後録37条)
〔現代語訳〕 人は地に生まれ、地に死んでいくものであって、地から離れることは出来ない。だから、人は地の徳、地の恵みをよく考えるべきである。
己を失えば(言志録120条)
   (おの)れを喪(うしな)えば斯(ここ)に人を喪う。人を喪えば、斯に物を喪う。 (言志録120条)
〔現代語訳〕 自分の自信がなくなると、周りの人々の信用を失うことになる。人の信用を失ってしまうと、何もかもなくなってしまうことになる。自信を持つことが大事である。
 上町常夜灯
上町常夜灯
寛政7年(1795)、上町・中町の有志により、ここから約100m南東の上町木戸付近に建立したもので、銘には『明和二乙酉秋創立寛政七乙卯秋再建』とある。戦前に国道257号沿いに移されていたが、昭和62年(1987)、岩村城創築800年を機にここに移された。城下町は江戸時代に度々大火に見舞われたことから、火伏せ(神仏の力により火災を防ぐこと)を祈願して建立されたと伝えられる。正面に大神宮(伊勢神宮)を配して天下泰平を、左側に秋葉大権現を配して火伏せを、右側に金比羅大権現を配して招福繁栄を願ったものである。〜 現地案内板より転載
以春風接人(言志後録33条)(
   以春風接人。(春風を以って人に接し)
   以秋霜自粛。(秋霜を以って自らつつしむ)   (言志後録33条)
〔現代語訳〕 さわやかで温かい春風のように人に接し、寒い身の引き締まる秋の霜のような凛とした厳しさで己に向き合い、自分を慎みなさい。
上町から本町交差点への下り坂
上町には、市に寄贈された築100年の建物を改修して平成23年(2011年)10月にオープンした『上町まちなか交流館』があります。上町は、岩村城に近い地区で、かつてお城を修理する職人さんが数多く住んでいたといわれるところです。上町まちなか交流館は、岩村町で継承されている竹細工や木工、わら細工などの技を次世代に伝えるための『ものづくりの交流拠点』となっています。
再び本町交差点へ戻ってきました
DATA
岩村町観光協会(観光案内所)

〒509-7403 岐阜県恵那市岩村町263-2 ふれあいの舘内
TEL:0573-43-3231
定休日:月曜日、年末年始
岩村町へのアクセス
・(車)中央自動車道恵那インターチェンジから国道257号を20分ほど南下。
・(鉄道)JR中央本線を恵那駅で下車して明知鉄道に乗り換え、5つ目の岩村駅で下車。
木村家
木村家 木村家の先祖は三河国挙母(愛知県豊田市)の藩士で岩村藩に招聘(しょうへい)されて岩村へ移り問屋職となり、初代守重より代々が岩村藩の財政に貢献してきた。木村家はしばしば岩村藩の財政窮乏のとき御用金を才覚して救い、岩村藩駿河領(静岡県)の水害や西美濃領(大垣市他)の麦の凶作のとき救済事業に尽力し天保5年(1834年)の江戸藩邸類焼のとき復旧に多額の金品を用立てるなど歴史に残る事業の多くに活躍している。代々の当主は文化人との交流が多く、八橋売茶翁も当家に長く逗留し、八代目・知周は佐藤一斎とは特に交流が深く、知周の墓石の碑文は一斎先生が記している。岩村藩主もしばしば当家を訪問しており、玄関、座敷、書院、庭等は木村家特有の文化と風流が今も生きている。八百年祭実行委員会建之 〜 現地案内板より転載
木村家の言志晩録石碑
佐藤一斎『言志晩録』より
  石重故不動。(石重し、故に動かず)
  根深故不抜。(根深し、故に抜かず)
  人當知自重。(人は當
(まさに)に自重(じちょう)を知るべし)
一斎(1772−1859)は幕末の岩村藩出身の儒学者である。『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録(てつろく)』を合わせ『言志四録』と云い、『人生いかに生きるか』の視点から、生き方の原理原則が説かれ、修養処生の書として古くから愛読されている。特に明治維新で活躍した人達に、大きな影響を与え、なかでも西郷南洲は、『手抄南洲言志録101条』を作成し、繰り返し読み親しみ、後の大西郷の礎を築いたことは有名である。〜 木村邸の解説より転載
懐かしのもんぺなどを販売する浅井屋
晴天の日になりましたが、通りでは雪かきが続きます(写真上)。衣料品店の浅井屋(写真上)は、江戸時代からの小さな店。懐かしの『もんぺ』などの販売や佐藤一斎の絵本、名言録集などを取り扱っています。用意してあるお茶を自由に飲んで休憩できるお休み茶処もあります。
浅見家
浅見家 慶長6年(1601年)、高崎城(群馬県高崎市)から岩村城に移封になった松平家乗(いえのり)の御用達として共に岩村に来た旧家で、幕末3代にわたって岩村藩の大庄屋をつとめました。岩村藩の財政のみでなく、明治時代に入ると大井・岩村間の岩村電気鉄道の開通に尽力を尽すなど岩村町発展に貢献しました。
いかにも染物屋を感じさせる土佐屋の暖簾
土佐屋 今から約260年前に染物業を営んでいた商家で、明治期になると金融業を営むとともに、濃明銀行岩村支店(明治32年創業)や岩村銀行(明治41年創業)の設置にも尽力した家。建物は、平成8年より復元工事が行われ、平成11年4月に『工芸の館』土佐屋としてオープンしました。当時の藍染めの行程が学べる染工場や土佐屋の歴史を展示した土蔵などがあります。
胸次虚明なれば(言志晩録5条) 
   胸次(きょうじ)虚明なれば、感応神速なり (言志晩録5条)
〔現代語訳〕 胸の中に余計な考えを抱かずに、心が透明で私心欲望がなければ、その心や感覚の働きは接する人々に神の如く迅速に伝わる。
 勝川家(左手前)と岐阜信用金庫(右隣り)
勝川家 江戸時代のはじめ屋号を松屋といい、材木や年貢米を扱う藩内でも有数な商家でありました。座敷に通する縁は、岩村城の遺構の一部が使われており、裏手、蔵にはさまれた荷駄の通用門をくぐると、その昔三千俵の米を納めたといわれる米蔵が扉をつらねています。又、各地にある松屋山と呼ばれる勝川家所有の山林より伐り出された銘木を保管する木蔵があり、繁昌した城下町商家の姿を今に伝えています。当時は岩村藩御用を享(う)け、藩財政に大きく貢献し藩の重役、藩士の出入りも多かったと言われています。岩村城創築八百年祭実行委員会建之 〜 現地案内板より転載
下町枡形(ますがた)
枡形(ますがた) 岐阜信用金庫の前を通ってさらに西に下って行くと、道は突如右に直角に曲がり広場のようになり(写真上)、今度はすぐまた左に直角に曲がって、後はまっすぐに下っていきます。この部分を『枡形』といい、道路を直角に曲げることによって、敵が容易に侵入したり、町の中を見通せないようにしています。
二階造りの家が立ち並ぶ西町
桝形は、東西に約1.3km延びる本町通りのほぼ真ん中にあり、枡形から西側の西町は、江戸時代末期から順次形成され、明治39年(1906年)の岩村電気軌道開通とともに発展してきた町並みで、家屋は二階を当初から居室とする軒が高い造りとなっているのが特徴的です。西町ふれあい広場やカステーラ松浦軒の看板が見える上の写真でその様子がうかがえます。
カステーラの松浦軒本舗
カステーラの松浦軒 寛政8年(1796年)創業というカステーラの老舗。岩村町本町に松浦軒本店、岩村町西町に松浦軒本舗(写真上)があります。江戸時代、長崎で蘭学を学んでいた岩村藩の藩医・神谷雲沢が長崎に遊学した折、製造法を覚えて岩村に伝え、松浦軒に伝授したものだそうです。
西町から岩村城跡方向を振り返った風景
【参考サイト】
(1)特定非営利活動法人『いわむら一斎塾』ホームページ

(2)岩村町観光協会ホームページ
(3)恵那市観光協会 − 城跡公園
(4)FUSO 折々の小さな旅 美濃・岩村(三菱ふそうトラック・バス株式会社)
   レポート ・佐藤一斎と言志四録 
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