♪五木の子守唄
おやじのオルゴール
五木村はいま − 熊本県球磨郡五木村
                        (
ご承知の通り、熊本県球磨郡五木村は、全国の子守唄を代表する『五木の子守唄』の発祥の地であり、戦後、子守唄とともに一躍有名になりました。と同時に、1966年(昭和41年)に建設計画が発表された川辺川(かわべがわ)ダムに沈む村としても注目を集めてきた村です。ダムの計画発表以来、五木村は、議会、全村民をあげてダム建設絶対反対を唱え、20年間以上闘い続けてきましたが、苦渋の選択で全村民合意の下、ダム建設を容認して、新しい村づくりを目指すことになりました。 そして今、水没する集落は、高台に造成された代替地への移転をほぼ完了しているのですが、漁業補償と農業利水事業の問題で、ダム建設計画の発表から丸40年を経った今日でも、 ダム問題は未解決のままです。今の五木村の風景のいくつかをアップロードしました。                       (旅した日 2006年07月)

五木村
『夢童』〜濱野邦昭・作


      五木の子守唄

九州のほぼ中央に位置し、
1,000m級の山また山に囲まれた
熊本県球磨郡五木村は、
その面積の97パーセントが
山林で覆われ、しかも、
1パーセント程度に過ぎない
農耕地は、昔はそのほとんどが
焼畑であった
と言われます。

山林を所有し
圧倒的な力を持った
33戸の『だんな衆』と呼ばれる
山林地主たち以外は、
ほとんどが
彼らの下でぎりぎりの生活を
強いられた『名子(なご)』と
呼ばれる小作人たちでした。

名子小作人たちの家では、
貧しさゆえに、
娘たちが年頃になると
子守奉公に出さざるを
えなかったのです。

五木を離れ、
彼女たちが奉公に出たのが
山を南に下った人吉の
豊かな商家や農家でした。


 
〜来た道を振り向けば、山また山

親や姉妹と別れ、
見ず知らずの家で、寂しく
つらい思いをしながら、
幼い娘たちが子供を
あやしながら歌った唄が
『五木の子守唄』でした。

  おどまいやいや、
  泣く子の守りは、
  泣くと言われて憎まれる
  
  つらいもんばい、他人の飯は、
  煮えちゃおれども、
  のどこさぐ


あやしても
泣き止まない子供、
それは子守が下手だからと
叱られる。
そんな他人の御飯は
煮えていても、
のどを通りにくい。


  おどんが、お父ちゃんは、
  あの山おらす、
  おらすと思えば、
  行こごたる


ふるさとの山の方を見ては、
望郷の思いが
またつのります。
『風のなかにふるさとの声がきこえる』〜長房一洋・作

水没予定地にいまだ健在の熊本県立人吉高校五木分校 


人吉に
子守奉公にやってきたのは、
五木の娘たちだけではないでした。

一説には、
天草郡天草町
福連木(ふくれぎ)の娘たちが
持ち込んだ『福連木の子守唄』が
五木の子守唄の源流では
ないかと言われています。

五木や福連木、
八代などから集まった
娘たちが
交流する中からやがて
唄が生まれ、
口から耳へと伝承されて
彼女たちの故郷へ
伝わっていった
のでしょう。

五木の子守唄の歌詞は
90ほど
あると言われています。
『ママあいたかった』〜岡田憲一・作

       川辺川ダム計画

五木村は、
1963年(昭和38年)から
3年連続して
未曾有の大水害により
壊滅的な打撃を
受けます。

1966年(昭和41年)、
国・県の調査団が五木村に入り、
その半年後には
川辺川下流の球磨郡相良村に
ダムを建設する
計画が発表されました。


ダムが建設されれば、
五木村の中心地は水没して
しまいます。

村では議会、全村民
あげてダム建設絶対反対を唱え、
20年間以上の闘いを
続けましたが、苦渋の選択で
全村民合意の下、
ダム建設を容認して、新しい村づくりを
目指すことになりました。





村がどう変わろうと、五木は子守唄のふるさと

川辺川岸辺の旧頭地(とうじ)集落跡と高台の代替地に造られた新しい頭地集落


そして今、
上の写真のように水没の
中心地である旧頭地(とうじ)集落は、
高台に造成された代替地への
移転がほぼ完了しています。

ところが、漁業補償と
ダム建設の目的の一つである、
農業利水事業の問題で、
ダム建設計画の
発表から丸40年を
経った今日でも、
本体着工の目途はいまだ立たず、
ダム問題は
未解決のままです。


とにかく、
代替地での新しい村づくりが
スタートしました。

あたらしい家並みは、
旧頭地集落の雰囲気とは
一変して、
都会郊外の住宅地そのものの
感じですし、
ここにいくつか挙げた
子守像の彫刻も新しい風景に
なじむまでには、
まだ時間が必要なようです。




〜清流なる川辺川支流

それでも、
ここを訪れる人が絶えないのは
やはり、
子守唄のふるさとに
違いないからです。

村がどう変ろうと
『五木の子守唄』は、村の宝として
いつまでも、
歌い継がれて行って欲しい
と思います。


『翔』〜住近芳子・作
頭地代替地の新しい家並み
【備考】 川辺川ダムの農業利水事業問題
  旧建設省が川辺川ダム計画を立てた1966年(昭和41年)の時点では、治水目的だけでしたが、1968年(昭和43年)には農業利水を入れた多目的ダムとして計画の変更がなされました。
  ところが、『ダムの水はいらん』という人吉・球磨農民の川辺川利水訴訟が、2003年5月勝訴します。
  今年(2006年) 6月、農水省は川辺川ダムに頼らない新たな農業利水計画を地元市町村や農家代表らに説明しました。この新しい案で農家の同意が得られれば、川辺川ダムから利水目的がなくなり、再び治水を主目的としたダム建設の是非が討議されることになります。
【参考にしたサイト】
■熊本県五木村長・西村久徳「子守唄の里 五木村」(H16/12/20)  → http://www.zck.or.jp/essay/2503.htm
■d-score 楽譜 - 五木の子守唄 ---- 熊本県民謡  → http://www.d-score.com/ar/A03040901.html
■五木の子守唄  → http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/shoukai/ituki_k.html
 
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