♪秋の歌(チャイコフスキー)
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石井記念友愛社 − 宮崎県木城町・西都市
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『福祉』という言葉さえ定着していなかった明治20年(1887年)に、22歳の若さで日本初の孤児院(後の岡山孤児院)を創設し、孤児救済の事業に着手した人がいました。生涯にわたり3,000人以上の孤児を救済し、『児童福祉の父』と称された石井十次(いしい じゅうじ、1865〜1914年)です。岡山孤児院は今は存在しませんが、石井十次の遺志は、現在も『石井記念友愛社』(茶臼原)、『石井記念愛染園』(大阪)に引き継がれ、各種の福祉活動をおこなわれています。岡山孤児院から移築された建物(方舟館・静養館)、十次の偉業を資料やパネルで知ることができる石井十次資料館、そして明治27年に孤児25人らの開墾から始まったという茶臼原(ちゃうすばる)の茶畑の風景などを木城町と西都市に訪ねました。  (旅した日 2008年09月)
 
 
石井記念友愛社
『石井記念友愛社』の標識が立てられたエントランス(写真上)
石井十次
慶応元年(1865年)、現在の宮崎県児湯郡高鍋町に高鍋藩の下級武士の長男として生まれ、16歳で内野品子と結婚。医学を志し岡山市に移住。キリスト教に入信し、岡山甲種医学校(岡山大学医学部の前身)に入学。
 
岡山県甲種医学校を卒業しますが、翌年の明治20年(1887年)、巡礼途中で夫に先立たれ、今の大師堂(岡山市内)で雨露をしのいでいた女性から8歳の男児を引き取ります。これをきっかけに孤児教育会(後の岡山孤児院)を岡山市内の三友寺で創設、孤児救済に生涯を捧げることを決意して岡山高等学校医学部を中退。決然として医学書を焼き捨てたといわれます。濃尾地震に被災した孤児や東北地方の凶作による孤児など、岡山孤児院は、明治39年(1906年)には1,200人にも達しました。
 
石井十次は、郷里である宮崎県茶臼原(ちゃうすばる)に遠大な理想を描いて、明治27年(1894年)より、岡山より移住を開始します。建物も解体して茶臼原の地に再現し、同年、院児25人が現地で開墾を始めました。農業自立による孤児の理想郷を目指したものでしたが、大正3年(1914年)に志半ばにして倒れ、48歳で永眠。大原美術館の絵画収集に当たった洋画家・児島虎次郎と結婚した長女友子の男児出産の電報が届いた日の死去でした。
毎年開催されている石井十次交流会のポスター 『石井十次の会』事務所(写真下)
石井十次と大原孫三郎
明治27年(1894年)に孤児25人で始まった茶臼原の開墾は、大正2年には、水田13町歩・畑46町歩 ・桑園16町歩に達するまでになりました。そうした中で、石井十次が急死すると、当時のクラボウ(倉敷紡績)社長で、十次の最大の支援者だっただった大原孫三郎が茶臼原孤児院を引き継ぎましたが、岡山孤児院、茶臼原孤児院とも大正15年(1926年)に活動を終了するに至りました。
 
戦後の昭和20年(1945年)、石井十次の孫児嶋虎一郎が太平洋戦争の被災孤児救済を目的に石井記念友愛社として、茶臼原孤児院を再開、その後、社会福祉法人石井記念友愛社となり、現在、ひ孫にあたる児嶋草次郎氏が児童養護施設、保育園などを運営し、石井十次の精神を受け継いでいます。

 
 
下の写真の三階の建物は、岡山から移設された『方舟(はこぶね)館』で三階部分には『アンジェラスの鐘』(エンジェルの鐘)が吊るされている鐘楼となっています。アンジェラスの鐘は、石井十次亡き後、募金活動によって作られたもので、地域の独立した門下生たちに朝夕、時を知らせ続けたそうです。一階部分は、『石井十次の会』事務所になっています。
岡山より移設された建物・『方舟(はこぶね)館』。
  
  
静養館・大原館・資料館
岡山より移設され、石井十次の最後の住まいとなった『静養館』(写真上)
静養館
明治12年(1879年)にキリスト教伝道団体によって岡山市内に建てられた宣教師の宿舎だったものを石井十次が購入して岡山孤児院内に移築、園舎や事務所などとして使用した建物で『西洋館』と呼ばれていました。十次の茶臼原への移住は、児童・職員だけに留まらず、建物も次々に解体して運ぶというは破天荒なものでした。
 
大正2年に当地へ移築後は、名前を『静養館』と変え、十次の住まいとなりました。大正3年に、この『静養館』において息を引き取りました。その語、大正末期に大改修され、二階部分が取り払われ現在の形になりました(現地の案内板を参考)。

 
静養館に中に上がってすぐに気付くのが、部屋に掛けられたたくさんの大きい絵画です。これらは、大原孫三郎に紹介され、やがて十次の長女・友子の婿となった洋画家・児島虎次郎の作品ということですから、さりげなく、あるいは無造作に飾ってあるのが驚きです。

 
大原館
十次がなくなると、大原孫三郎は、茶臼原の十次の墓地の隣りに別荘を建て、ときどき訪れたそうです。その建物を静養館の隣りに移築したのが『大原館』(写真下)です。
児島虎次郎のたくさんの作品が掛けてあります(写真上) 『大原館』(写真下)
石井十次資料館
資料館の中に入ると、明治20年(1887年)に大師堂で引き取った巡礼の8歳の男児・前原定一の写真から始まって、当時の様子を写したおびただしい数の写真がぎっしりと壁に張られているのにまず圧倒されます。大原孫三郎の支援のほか、たとえば、小林富次郎商店(現在の株式会社ライオン)、アメリカ少年会、アメリカ人ビンリングス女史、在清国セルデン氏など、多方面から寄付を得ていますが、そのためには克明な記録写真が必要だったということでしょうか。
 
若い頃、放蕩三昧だった大原孫三郎が、石井と出会いその生活を改めたというエピソードや洋画家・児島虎次郎の絵画収集のいきさつなどを物語る写真等も掲示されていて興味深いです。
 
また、ここにアップできないのが残念ですが、館内の正面壁にはめ込んである人間国宝・芹沢_介が製作したステンドグラスも一見の価値があります。
 
『石井十次の会』のボランティアの女性の方が常時待機されていて、資料館内をはじめ、静養館などの説明をして下さいます。
十次の偉業を物語る資料や写真などが展示されている石井十次資料館(写真下)
  
  
茶臼原(ちゃうすばる)
10ヘクタールもある広大な茶畑(写真上)
茶臼原開拓の象徴であるのが10ヘクタールもある広大な茶畑(写真上)です。当時は桑畑で、孤児たちが蚕(カイコ)のえさとして桑を育てていました。石井十次と大原孫三郎によって手がけられた茶臼原団地270ヘクタールは、現在は一市二町にまたがっており、大正2年(1913年)に設立した私立茶臼原尋常小学校は既に自治体の方へ寄附され、残りは社会福祉法人石井記念友愛社によって、5つの保育園などが経営をされています。その一つが、石井記念ひかり保育園(写真左)です。 
石井記念ひかり保育園(写真上)
茶臼原憲法
石井十次は、大正2年(1913)、茶臼原孤児院の将来を夢見て、「茶臼原憲法」を発表しました。
 
1.天は父なり、人は同胞なれば
  お互いに相信じ相愛すべき事。
 
2.天父は恒に働き給う、我等も
  倶(とも)に労働すべき事。
 
3.天恩に感謝のため、我等は禁
  酒、禁煙を実行し、収入の十分
  の一を天倉に納むる事。
開拓資料館(写真上の左の瓦屋根の建物)
茶臼原にある石井十次の胸像(写真上)。この隣りに十次の墓があります。
茶臼原の茶畑の奥まった一角に建てられた石井十次の胸像は、270ヘクタールにも及ぶ茶臼原団地の広大な台地を優しく見詰めている風でした(写真上)。
 
茶臼原の茶畑から少し下ったところににある祈りの丘ギャラリーは、かつて石井十次とその仲間たちが祈りを捧げた古い教会を改装し、絵画展や写真展、演奏会などの会場として利用されています。
祈りの丘空想ギャラリー(写真下)とその内部(写真上)
(文中敬称略)
【参考にしたサイト】
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・石井十次記念友愛社 
・ひむか学 石井十次
・宮崎県季刊誌「Jaja」じゃじゃ
・下記のページでビデオを見ることができます。
 →
 先人の風景 山陽新聞社ホームページ
 
 
 
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