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旅行記 ・伊香保温泉 − 群馬県渋川市 2014.06
いかほおんせん
伊香保温泉
石段街で知られる伊香保温泉
伊香保温泉 伊香保温泉は、万葉集にもその名が登場しており、その発見は1900年前とも1300年前ともいわれています。現在の温泉街が形成されたのは戦国時代であり、長篠の戦いで負傷した武田兵の療養場所として武田勝頼が当時上州を支配していた真田昌幸に命じ、整備されました。石段もこのときにできました。明治時代以降は、竹久夢二、徳富蘆花、夏目漱石、萩原朔太郎、野口雨情など文人が多く訪れた。また、御用邸やハワイ王国大使別邸なども作られました。
 
石段街を上り切ったところ
 伊香保温泉の老舗旅館・千明仁泉亭(ちぎらじんせんてい)は、文豪・徳富蘆花(とくとみろか)の悲劇の物語小説『不如帰』の冒頭を飾る宿です。伊香保を愛した明治の徳富蘆花が常宿として生涯10回宿泊し、この宿をひいきにしました。現在では各地で見られる茶色の温泉饅頭は、伊香保温泉が発祥の地(勝月堂)とも言われ、「湯の花まんじゅう」として1910年(明治44年)から売り出されています。
石段街
急傾斜地に作られた 365段の石段の両側に、温泉旅館、みやげ物屋、射的・弓道などの遊技店、飲食店などが軒を連ねているのが伊香保温泉の特徴。石段は温泉街のシンボルであり、石段街と呼ばれます。石段の下には、黄金の湯の源泉が流れ、小間口と呼ばれる引湯口から各旅館に分湯されていいます。石段を上りきったその上に伊香保神社があります。浴衣姿に下駄をつっかけて、石段街を散策して楽しむ。これぞ、伊香保温泉の旅情というものでしょう。
石段街から伸びる路地
『伊香保の街』  与謝野晶子
1915年(大正4年)
榛名山の一角に、段また段を成して、
羅馬時代の野外劇場の如く、
斜めに刻み附けられた 桟敷形の伊香保の街、
屋根の上に屋根、部屋の上に部屋、
すべてが温泉宿である、そして榛の若葉の光が
柔かい緑で 街全體を濡らしてゐる。
街を縦に貫く本道は 雑多の店に縁どられて、
長い長い石の階段を作り、伊香保神社の前にまで、
Hの字を無数に積み上げて、
殊更に建築家と繪師とを喜ばせる。
 
『なつかし横丁』とあります。
石段に刻まれた与謝野晶子
千明仁泉亭 と小説・不如帰 「上州伊香保千明(ちぎら)の三階の障子開きて、夕景色をながむる婦人。年は十八九。品よき丸髷まげに結いて、草色の紐(ひも)つけし小紋縮緬(こもんちりめん)の被布(ひふ)を着たり。色白の細面(ほそおもて)・・・」 『不如帰(ほととぎす)』は、明治31年(1898年)から32年(1899年)にかけて国民新聞に掲載された徳冨蘆花の小説。のちに出版されてベストセラーとなりました。
千明仁泉亭(ちぎらじんせんてい)前の石畳
片岡中将の愛娘浪子は、実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気むずかしい姑に苦しみながらも、海軍少尉川島武男男爵との幸福な結婚生活を送っていました。しかし、武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫をしたいつつ死んでゆきます。家庭内の新旧思想の対立と軋轢、伝染病に対する社会的な知識など当時の一般大衆の興趣に合致し、広く読者を得えました。(不如帰 (小説) - Wikipedia より)。
千明仁泉亭近辺の石段(緑のある辺りが千明仁泉亭)
伊香保神社
伊香保神社は石段街を上り切った最上部にあります。
伊香保神社 石段街のその最上部にある神社で、伊香保温泉を守護する神社であるとともに、古来より縁結び、子宝、安産、子育て、家内安全、商売繁盛、健康、豊穣などの御神徳がある神社としても有名だそうです。現在の主祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと、大国主=大黒様)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二座で、温泉・医療の神を祭ります。
一ノ鳥居と二ノ鳥居
現在の温泉地に移転する以前は、『いかほ』(榛名山も含むこの地域の旧称)の山々を山岳信仰の場とした『いかつほの神』一座が祭神であったとされます。元旦祭、節分祭のほかに、たび供養祭(7月第一月曜日)や伊香保まつり(9月18日〜20日)の年中行事が執り行われます。境内には、万葉歌碑、松尾芭蕉の句碑、高山彦九郎の腰掛の石などがあります。
伊香保神社の境内裏手(この辺りからが湯元通りです)
湯元通り
 
伊香保神社から河鹿橋に至る湯元通り
湯元通り 伊香保神社から東北に進んで、河鹿橋(かじかばし)・橋本ホテル・伊香保温泉露天風呂までの、いわゆる湯元(源泉地)に至る通りをいいます。そう幅の広くない静かな通りの両側に、山菜佃煮製造本舗 カフェダイニング、煎餅店、茶屋などの中小のお店や宿が軒を並べています。
河鹿橋のたもとに一軒だけある茶店『湯元茶屋』
河鹿橋のたもとにある『湯元茶屋』。朱塗りの河鹿橋の雰囲気にいかにもそぐったこじんまりした茶屋が片足を法(のり)に突っ込むようにして佇(たたず)んでいます。70歳半ばの夫婦が営む茶屋。一軒だけというのがいいです。そば、麦とろ飯、名物の温泉卵におでんなどを出し、夏は、鮎の塩焼きとビールのセットが人気だそうです。気だとか
紅葉の名所といわれる河鹿橋(かじかばし)
河鹿橋(かじかばし) 河鹿橋の付近は紅葉の名所で、毎年10月末から11月中旬になると、もみじ・かえで・くぬぎ・うるしなどが一斉に色づき、素晴らしい風情を呈します。この時期になるとライトアップされ、昼と夜、表情を異にする紅葉を鑑賞でるそうです。初夏の今は、朱色の欄干に覆いかぶさる夏紅葉が風情を醸し出していました。
今は、夏紅葉が風情を醸し出しています。
湯元呑湯道標 河鹿橋のたもとに『湯元呑湯道標』という道標(渋川市指定史跡)が建っていて、『明治期ドイツ人医師ベルツ博士の指導により飲泉療法が盛んになり呑湯所も設置されたと考えられます。この道標は、浴客にとって不案内な土地での道案内に建てられました。』と書いた案内板があります。
静かな佇まいの橋本ホテル
橋本ホテル こんなところにこんな雰囲気のホテルがあったのか、ここを宿にすれば良かったなと思ってみました。橋本ホテルはそんな静かな佇まいのホテルです。観光の中心になっている石段街からは奥まったところにありますが、散策にちょうどいい距離ではあります。ネットで調べてみると、とても『昭和』の香りのする部屋だと口コミにありますが、私たちが泊まった団体客の多い大型の旅館よりは低目の料金設定です。明治時代に開業し、外国人客に愛されたホテルらしいです。ホテルの下に見えるのが伊香保温泉飲泉所。そこから100mほど行くと伊香保温泉露天風呂があります。
伊香保温泉飲泉所
伊香保温泉露天風呂 伊香保温泉は、群馬県の名峰、榛名山(はるなさん)の中腹にあって、万葉集の歌に詠まれるほどの歴史がある温泉場です。その中でも、伊香保温泉露天風呂は源泉地に作られている公衆浴場。この源泉から温泉街の中心の石段に湯がひかれています。暖簾を潜れば、露天風呂だけというシンプルなつくり。竹垣が情緒を添えます。
湯元(源泉)の傍らにある公衆露天風呂
ベルト博士  『ベルツ博士は日本温泉医学の父であり、わが伊香保温泉にとって大恩人であります。明治初期(1870年代)数多い日本の温泉のなかで博士に第一番に系統的指導を受けたのが伊香保温泉であり、この時の指導内容が日本鉱泉論として発表され日本温泉医学の原典になっておりますことは当町の最も誇りとするところであります。』と碑文にあります。
ベルツ博士の胸像と碑文
石段の湯
石段の湯あたりから北東方向を眺める。
石段の湯 名前が示す通り、石段の入口から少し上がった、伊香保関所の上隣りにあります。黄金の湯(こがねのゆ)が低料金で楽しめる、市営(渋川市)の日帰り入浴施設(共同浴場)です。外観は白壁の和風な建物で、内部は2003年にリニューアルされています。
石段の湯(市営の公衆浴場)
蔵造りの建物で、1階には男女別の浴場があります。内湯だけで露天風呂はありません。2階は明るく快適な休憩室(広間)になっていて、入浴客に開放されているので、お弁当を持ってきてくつろぐこともできます。営業時間9:00〜21:00(4〜10月)、9:00〜20:30(11〜3月)、休館日:第2・第4火曜(祝日の場合は営業)、料金は 大人:400円、 子供:200円。
伊香保関所
湯畑からすぐの『大阪屋』のあたり
伊香保関所 高崎より渋川、金井、北牧、中山を経て越後に至る道を三国往還と称し、杢ヶ橋(もくがばし)関所が設けられていました。吾妻川が増水して通行できない時、渋川から伊香保を経て東村、中之条を通り中山宿まで続き、この街道を三国街道の裏往還と呼んでいました。この要所として寛永8年、幕府の命により伊香保村口留番所(関所)がこの地に設置されました。
湯畑からすぐの『大阪屋』のあたり
当時の関所は間口五間奥行き三間の約15坪の萱葺屋根の建物で周囲に木柵があり、東西に門扉が設けられていました。関所番役人は伊香保の大屋二名(年番)下番二名、計四名にて勤め、明治二年、新政府の誕生とともに関所廃止令により閉所となりましたが、この間238年の長きにわたりその役割を果たしてきました。
『取り調べ石』(左右)と『お辞儀石』(中央)
上の写真に並んでいる石は、当時の関所で使われていたもので、左右のやや高い石は『取り調べ石』と言われ、関所役人が腰を掛けて取り調べにあたったとされるもので、中央の平らな石は『お辞儀石』と言われ、旅人が役人の前で調べられるときに、平伏して手をついた石であるといわれています。
石段
湯畑からすぐの『大阪屋』のあたり
石段 武田勝頼が真田昌幸に命じて、伊香保の温泉街を整備させたときから、石段はありましたが、段数は315段だったそうです。ところが1938年(昭和13年)に伊香保から榛名山への道路(県道)が整備されたため石段が隠れてしまいました。2006年(平成18年)2月の市町村合併により渋川市となったことを期に新たに石段の延長整備を進め、2010年(平成22年)3月に現在の形に生まれ変わりました。現在の段数は365段となり、一年中(365日)賑わう温泉街にとの願いが込められています(高低差約68m、総延長約330m)。
総段数365段の石段の上り口。
泉黄金の湯と白銀の湯
露天風呂(黄金の湯)(森秋旅館で)
伊香保には、『黄金(こがね)の湯』と『白銀(しろがね)の湯』がありますが、もともとは、『黄金の湯』だけでした。黄金の湯は、湯の中に含まれる鉄分が酸化し、独特の茶褐色になるため、そう呼ばれるようになりました。刺激の少ないやわらかい湯で、身体を芯から温めて血行を促すので、特に女性には"子宝の湯"として喜ばれてきました。また病気やケガの療養にいいということで、昔から湯治場として人気を博していました。一方、白金の湯は近年湧出が確認されたもので、色が無色透明だったのでそう名づけられました。病後の回復や疲労回復、健康増進に良い湯として知られています。
 
旧ハワイ王国公使別邸
旧ハワイ王国公使別邸
市指定史跡 ハワイ王国公使別邸 ハワイ州が独立国だった当時(明治31年(1898年)まで)の駐日公使ロバート・ウォーカー・アルウィンが所有し、別邸として使用したもので、伊香保の人たちは『アルウィンさんの別荘』と親しみを込めて呼んでいました。日本からハワイに官約移民が渡って、昭和60年(1985年)に百年を迎えたことを記念し、ハワイ独立国当時の伊香保との交流を示す貴重な国際交流資料として指定されました。渋川市教育委員会
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