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旅行記 ・人吉球磨 かくれ念仏の里を訪ねて − 熊本県 2011.04
人吉球磨 かくれ念仏の里
球磨川をはさんで十島仏具焼却地(相良村柳瀬十島)の対岸にある花立。
花立(隠れ石仏)
  相良藩の真宗禁制
『人吉・仲よし・こころ良し』。人々は、人吉・球磨地方の気質をこう称して呼びます。四方を九州山地の山々に囲まれ、建久9年(1198年)以来、明治維新までの約700年の長きにわたって相良(さがら)藩一藩による統治が続いたこの地域には、独特の仏教文化圏が形成され、現在もこの地方の風土の一部となっていますが、 そこにはまた、相良藩による真宗(浄土真宗・一向宗)の禁制という特異な歴史もあったのでした。それも300余年という長きにわたって 続けられましたが、かくれ念仏の信仰の灯は消えることはありませんでした(但し、相良氏の菩提寺・願成寺にも『南無阿弥陀仏』と刻まれたお墓があるように、すべての念仏が禁じられたわけではなく、ご法度とされたのは浄土真宗とそれに日蓮宗に限られました(1))。人吉球磨のかくれ念仏の史跡、禁制の遺品を訪ねました。
 
  花立
  天文23年(1554年)2月7日の真宗禁令により球磨一円の真宗信者の家から仏像仏具が徴収され十島仏像仏具焼却地(相良村柳瀬十島)(写真下)において焼却されました。その焼却の炎を見るたびに、球磨川の対岸地から信心深い念仏婆さんが、川端に花を供えて伏し拝んだことから『花立』という地名になりました(写真上、左)。
十島仏具焼却地(相良村柳瀬十島)
十島仏具焼却地 天文23年(1554年)2月7日の真宗禁令により球磨一円の真宗信者の家から仏像仏具を徴収し、焼却した地です。その後も、随時摘発が行われここで焼却されました。今も当時の灰があり、古老の話によると、この地には昔は草も生えず、牛馬も避けて通ったと言います。現在、記念の祠(写真上)が建てられています。
十四人淵
十四人淵(じゅうよったりぶち) 通称『大曲り(の淵)』と呼ばれるこの淵は、十四人淵とも呼ばれます。今から約三百年ほど前の貞享4年(1687年)8月1日、細紐で互いの体を結びあわせた男女十四人の死体がこの淵に浮上しました。役人が調べたところ、対岸で盃をとりかわし、十四本の杉苗を植えて入水したということがわかりました。江戸時代の人吉藩では一向宗の信仰を禁止し信者を厳しく取り締まっていました。この十四人は役人に信者であることが知られたので、生きて地獄を味わうより死を選んだと伝えられています。その後地域の人々は、この淵を十四人淵と呼んで犠牲者の冥福を祈りました。相良村教育委員会、相良村文化財保護委員会
 
本願寺人吉別院
本願寺人吉別院 相良藩によって一向宗(浄土真宗)の教えが禁じられていた人吉・球磨地方に、明治11年(1879年)、一向宗解禁後初めて作られた浄土真宗の寺院。現在も人吉・球磨地域唯一の本願寺別院として、多くの門徒たちの心の支えとなっています。隠れ念仏の資料や殉教者遺品が陳列され、一向宗殉教のエピソードを数多く伝えられています。
 
合戦峰(かしのみね)にある殉教者・山田村の伝助の墓供養碑(写真上・左下)
石碑(伝助翁殉教之地)
講の重要な世話役に毛坊主と呼ばれる人がいました。必要なときに僧侶の代わりをしたり、領外の真宗のお寺との連絡役などを務めました。 正式の僧侶でなく有髪妻帯の俗人なので毛坊主と呼ばれたわけです。毛坊主の存在は大きく、長い禁制を耐え抜いた原動力でした。その象徴的な人物が山田村の伝助です。寛政8年(1796)発覚、獄門に処せられました。今、山江村(明治22年、山田村と万江村が合併)の合戦峰(かしのみね)に殉教者・山田村の伝助の墓供養碑が残されています。また、山江村山田西川内の民家の墓地には、伝助の初代、二代、三代の墓があり(写真下)、位牌が本願寺人吉別院に預けられています。
  仏飯講と山田村の伝助
相良藩は、宗門奉行を頂点に村々に監視の目を張り巡らし、毎年、春と秋には宗門改め(民衆の信仰する宗教を調査する制度である)を行い、 さらに檀那寺(だんなでら、檀家となっている寺)には寺請証文を、村には宗門人別帳を、五人組には証文を出させるなどして、一向宗を取り締まりました。これに対して門徒たちは、仏飯講などの秘密の講(信仰集団)をつくり、それを親から子へと受け継いでいきました。講は、領外の浄土真宗のお寺を通じて本山の本願寺への上納も行いました。こうした金銀流出という事態も藩が一向宗を禁制とした理由の一つといわれます。
伝助の墓から見た山江村の風景
山田村伝助の墓(球磨郡山江村大字山田字西川内)(写真上)
与内山(よねやま)の首塚聖地(熊本県人吉市瓦屋町)
与内山(よねやま)の首塚聖地 殉教者伝助は、球磨郡山田村(現在の山江村)の西川内に生い立ち
真宗の法縁にあい無二の信者で、秋山和七郎なる者を伴って、昼は奥に間にかくれ、夜は人の寝静まるのを待って各村落に法義の宣布に努めましたが、ならず者の富左衛門と亡者の密告訴により国禁を破る者として山田川原の刑場の露と消えました。伝助の愛弟子秋山和七郎が山田川原の刑場獄門台に晒された伝助の首を盗み自分の所有地に埋葬した首墓の地で、その後、和七郎の息子である弥七郎が伝助の遺歯を隠したとされる観音像の脇に地蔵像を祀り、首の供養塔にしたと言われています(写真上)。
山江村歴史民族資料館(禁制に関する遺品、資料が展示されています)
真宗禁制の遺品(楽行寺)
真宗禁制の遺品を数多く所蔵している楽行寺(らくぎょうじ)
楽行寺(らくぎょうじ) 楽行寺は、全国でも希なる真宗禁制当時の貴重な遺品・古文書等の資料を数多く所蔵しています。楽行寺は、真宗十派ある中の真宗佛光寺派の末寺であり、開教当時よち特に第二代富士谷証道は、相良藩における隠れ念仏資料の重要性を認め、後世のために残そうと奔走して集め回ったからです。〒868-0083熊本県人吉市下林町273-1 TEL (0996)24-5642
 傘佛(かさぼとけ)(写真上左)とまな板本尊(同右)
 傘佛の御開山親鸞聖真影掛け軸(写真上)
 竹筒佛(竹筒の厨子と御本尊)(写真上)
  まな板本尊(県指定文化財)
まな板   縦56.5cm 横23.5cm 厚さ2.4cm
本尊掛け軸 縦45.5cm 横18.0cm

 
本願寺20代門主広如上人(江戸時代末期)より善倫へ送られた阿弥陀本尊の掛け軸を杉材の俎(まな)板の中に守り隠すために作られたもの。この掛け軸は、血判阿弥陀如来本尊と思われる。
 阿弥陀如来本尊掛け軸の裏書き
      本願寺釈 広如(花押)
    方便法身尊形   願主釈  善倫。
 
まな板本尊の掛軸(写真上)
傘佛(かさぼとけ)(県指定文化財)
桐材  傘 全長 86.8cm
御開山親鸞聖人真影掛け軸
      縦148.5cm 横61.5cm

 
八代正教寺を取次いで安政6年(1859年)五月下旬に佛光寺25代真達上人より送られた御開山親鸞聖人の御影の掛け軸をくりぬいた桐の傘の中に納め、守り隠すために作られたもの。
   
 開山聖人御影掛け軸の裏書き
      汁谷親鸞聖人真影
 右有由縁肥後八代郡八代正教寺以取次
 求磨同行中江令授与者也
    安政六年五月下旬  釈 真達(花押)
阿弥陀如来像と観音菩薩が対になった竹筒佛(たけづつぼとけ)
阿弥陀教仮名写し本 (天明元年(1781年)、縦24.5cm、横17.3cm、17枚綴り)
阿弥陀教仮名写し本
この書は漢字が十分に読めない当時の人に読み易くするよう配慮して、あえて平仮名で書き写し与えたものであろう。また、貰った人が本に所有の名前を書き残こして処罰の対象になることがないよう考慮して、先もって持主不知(持ち主知らず)と記したと思われる。
  阿弥陀教仮名写し本(県指定文化財)
真宗の在家勤行(読経)用に佛説阿弥陀教と回向文を組み合わせて作成されたもの。その大半はひらがなで書き記してある。文章の終わりには、天明元年(1781年)六月二日書主七十五才 老筆 とある。筆者は漢字も達筆であり、ある程度の知識者であると思われる。
阿弥陀教仮名写し本
御京之覚 (縦27.1cm、横19.9cm、10枚綴り)
御京之覚の表紙
女人往生聞書(にょにんおうじょうききがき)
寶永三年(1706年)四月二十八日手書き写し。作者は、存覚上人(本願寺第三世覚如上人の長男)で、この書の原本は本願寺中興の祖第八蓮如上人が聞き書き記したものと思われる。原本には、後書きに蓮如上人が筆を執ったことが記載されているが、この書では『終』を持って省略されている。当時の封建制度の社会や当時の佛教界では、女性の扱いや地位はまだ低く、認めておらず、この書は先進的一面があり、蓮如上人及び真宗教団に多大な影響を与えたことは事実である。この書を用いて隠れながら女人講等の法座が開かれたことであろう。
  御京之覚え(おきょうのおぼえ)
宗祖親鸞聖人の著作『教行信証』行巻の掲文、正掲を音写したもの。上の阿弥陀教仮名写し本と違い、村の名前と持ち主の名前をはっきり書き残してあるが、書かれている内容は当て字ばかりを用いて作成してあるので素人にはわからない。この背景には、真宗関係の仏典・経本をそのまま禁制の土地、相良藩に持ち込むのは困難であり、交通の要所には関所が何箇所も設けらっれ持ち物も検査されていた。そのため、お教を丸暗記して相良藩に入り作成されたと思われ、経典の文字が正確に思い出せなかったことと、また表紙の京の字にお経の経の字が選ばれていないところをみれば、故意であったと思われる。
女人往生聞書(縦28.0cm、横20.7cm、29枚綴り)
法名書(ほうみょうしょ)
法名書(ほうみょうしょ) 法名  釈浄海 正教寺(花押) 文久四年(1864年)二月
当時八代正教寺は、細川藩領内にあり、一向宗(真宗)は特に禁制されていなかったため、球磨のかくれ真宗信者にとっては距離的にも身近な真宗の法義にふれられる寺院であり、また京都の本山に取次ぐ連絡所的働きもしていた。これらの法名書は、八代正教寺と球磨のかくれ信徒との間の密接な交流関係がうかがわれる。
 【参考資料およびサイト】
(1) かくれ念仏の里 ふるさと寺子屋 お役立ち便利帳 熊本県観光サイト
(2) 楽行寺 『かくれ念佛の里をたずねて−相良藩における真宗(一向宗)禁制の遺品の数々とその歴史−』
 
−編集後記−
同時代に300年余り、真宗(一向宗、浄土真宗)の信仰が禁止されていた九州南部の薩摩藩(鹿児島と宮崎の一部)と相良藩(熊本県の人吉地方)。薩摩藩におけるかくれ念仏については、2005年にいくつかの史跡を訪ねていましたが、相良藩の史跡については今回やっと見学を果たせました。特に、楽行寺では、四代目代表の富士谷澄照さんに1時間半近くもお話しをお伺いした上に、真宗禁制の貴重な遺品の数々を拝見し撮影させて頂きました。ありがとうございました。遺品に関する本ページの説明文は、そのとき頂いた資料『かくれ念佛の里をたずねて−相良藩における真宗(一向宗)禁制の遺品の数々とその歴史−』から転載させて頂きました。その資料に次のようにあります。『現在、人吉・球磨に残っている真宗禁制の史跡や命懸けで守りとおしてきた遺品の数々、古文書等の資料を拝見することにより、信教の自由の権利が保障されている時代(現代)の私たちに対して、問いかける多くの声無き声のメッセージを感じ取って頂ければ幸いです』と。(2011.06.25)
 レポート ・人吉球磨のかくれ念仏
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