石碑(伝助翁殉教之地) |
講の重要な世話役に毛坊主と呼ばれる人がいました。必要なときに僧侶の代わりをしたり、領外の真宗のお寺との連絡役などを務めました。 正式の僧侶でなく有髪妻帯の俗人なので毛坊主と呼ばれたわけです。毛坊主の存在は大きく、長い禁制を耐え抜いた原動力でした。その象徴的な人物が山田村の伝助です。寛政8年(1796)発覚、獄門に処せられました。今、山江村(明治22年、山田村と万江村が合併)の合戦峰(かしのみね)に殉教者・山田村の伝助の墓供養碑が残されています。また、山江村山田西川内の民家の墓地には、伝助の初代、二代、三代の墓があり(写真下)、位牌が本願寺人吉別院に預けられています。 |
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仏飯講と山田村の伝助 |
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相良藩は、宗門奉行を頂点に村々に監視の目を張り巡らし、毎年、春と秋には宗門改め(民衆の信仰する宗教を調査する制度である)を行い、 さらに檀那寺(だんなでら、檀家となっている寺)には寺請証文を、村には宗門人別帳を、五人組には証文を出させるなどして、一向宗を取り締まりました。これに対して門徒たちは、仏飯講などの秘密の講(信仰集団)をつくり、それを親から子へと受け継いでいきました。講は、領外の浄土真宗のお寺を通じて本山の本願寺への上納も行いました。こうした金銀流出という事態も藩が一向宗を禁制とした理由の一つといわれます。 |
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伝助の墓から見た山江村の風景 |
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