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旅行記 ・弘前の洋館巡り − 青森県弘前市 2016.07.14
弘前の洋館巡り
日本聖公会弘前昇天教会教会堂
日本聖公会弘前昇天教会教会堂 イギリス国教会の伝統を引く日本聖公会東北教区に属するプロテスタント系の教会で、1920年(大正9年)に建設されたこの教会堂は、イギリス積みの赤レンガが特徴的な建物で、正面右寄りには鐘塔が配置され、外壁に控え壁を設けたゴシック建築。設計は立教大学校校長を退任し建築家として日本各地の聖公会教会堂を設計していたアメリカ人建築家ジェームズ・ガーディナーが手がけ、施工は本人もクリスチャンだった林緑だといわれている。〜 Wikipediaより。
日本基督教団弘前教会
日本基督教団弘前教会 1875年(明治8年)に横浜から帰弘して東奥義塾(現私立東奥義塾高等学校)の塾長になった本多庸一は、一緒に弘前に来た宣教師ジョン・イングと共に弘前公会を設立。東北地方で最も古い教会であるとともに全国でも7番目に古いプロテスタント教会でした。左右に配置されたフランスゴシック風の双塔や、外壁に設けられている控え壁と尖塔アーチの窓が印象的な現在の教会堂は、1905年(明治37年)焼失の教会堂に代わり、1906年(明治39年)12月に完成したものです。
旧第八師団長官舎(弘前市長公舎)
旧第八師団長官舎(弘前市長公舎) 日本有数の桜の名所である弘前城公園の目の前にあるスターバックスコーヒー弘前公園前店は、なんと登録有形文化財。1918年(大正6年)に第八師団長官舎として建設された玄関部に切妻破風をもつハーフティンバー風洋館で、終戦とともに米軍の進駐部隊の司令官宿舎として使用されましたが、1951年(昭和26年)に市に払い下げられ、市長公舎として利用されました。現在は、スターバックスコーヒーとして使用されています。
藤田記念庭園(左手)前の風景。前方に岩木山、右手が弘前公園
藤田記念庭園 日本商工会議所会頭も務めた実業家である藤田謙一が、1919年(大正8年)に郷里である弘前市に別邸を構える際に東京から庭師を招いてつくらせた江戸風な景趣の庭園。園内は、高台部と低地部に分かれており、高台部は岩木山を借景した洋風庭園で、低地部は池泉回遊式の日本庭園となっています。東北地方でも有数の大規模な庭園。園内にある洋館、和館、倉庫等が2003年(平成15年)に国の登録有形文化財となりました。
藤田記念庭園・洋館
別邸である洋館は、高台部にあり、木造モルタル2階建てで、玄関先まで反りを付けて下ろされた袴腰屋根や階段吹抜け部分の八角形の塔が印象的なデザインとなっており、設計は堀江佐吉(弘前市における代表的な近代建築の担い手であった)の六男金造、施工は長男彦三郎が行いました。同時に建てられた岩木山麓の農牧場開拓を目指して設置された開発事業事務所の倉庫は、イギリス積みによる煉瓦造り2階建てで、軒部分の煉瓦を4重にした軒蛇腹が特徴的な建物。
藤田記念庭園
和館は、木造平屋建てで、1937年(昭和12年)板柳町に藤田謙一の本宅として建てられたものを、1961年(昭和36年)に現在の場所へ移築してきたものです。藤田記念庭園は藤田の私邸として整備されたものでしたが、藤田の死後、弘前相互銀行(現:みちのく銀行)頭取だった唐牛敏世に譲渡され「弘前相互銀行倶楽部」(のちに「みちのく銀行倶楽部」)として開放されてきました。しかし、1979年(昭和54年)に唐牛が亡くなると、その後はほぼ放置状態となっていました。
藤田記念庭園
その状態にあったものを、1987年(昭和62年)に市制施行百周年記念事業の一環として弘前市が買収して復元整備し、1991年(平成3年)に開園しました。建築物も見学可能で、うち洋館は喫茶室のほか50人収容のホールや小会議室の貸しスペースとして利用されており、倉庫(考古館)は砂沢遺跡出土品(国の重要文化財)をはじめ、弘前市内の遺跡出土品を中心とした考古資料を展示しています。以上、〜 Wikipediaより。
旧弘前市立図書館
旧弘前市立図書館 1906年(明治39年)に建設された図書館で、弘前市内の篤志家により建てられ、市に寄附されたものでした。1930年(昭和5年)に図書館が別な建物に移転したことから民間に払い下げられましたが、1989年(平成元年)市が再取得し、市立郷土文学館の施設として保存・一般公開されています。ルネサンス風の意匠を基調とした木造3階建てで、左右両端に配置された八角形3階建ての塔が特徴的な建築物。
旧弘前市立図書館
当時、弘前市には公立図書館がなく、1903年(明治36年)に開館した私立図書館も日露戦争勃発により動員された兵士の宿舎として徴発されるという有様だったことから、旧陸軍第8師団の弘前新設や日露戦争開戦に伴う諸工事・物品納入などで大きな利益を得た堀江佐吉や実業家の斉藤主等の篤志家により建設されることとなったもので、最終的には当初計画の約4倍の施設規模で竣工し、発起人でもあり設計者・施工者でもある堀江佐吉らが増額分を負担したと言われています。〜 Wikipediaより。
 旧東奥義塾外人教師館
旧東奥義塾外人教師館 1903年(明治36年)、弘前市立東奥義塾(現私立東奥義塾高等学校)に招かれていた英語教師の宿舎として建設されたもので、1987年(昭和62年)の同校移転時に市に寄贈され保存・一般公開されています。木造2階建てで、延床面積が約280平方メートルと宿舎としては比較的大きな建物でした。館内は下足で畳敷き部屋も配置されているなど日本の様式も見られますが、屋根はトラス構造となっており、西洋館をイメージされた意匠となっています。
旧弘前市立図書館(前方)と旧東奥義塾外人教師館(右手)
旧第五十九銀行本店本館 1904年(明治37年)に第五十九国立銀行(現:青森銀行)の本店として弘前市に建設されたもので、1967年(昭和42年)より同銀行の記念館として保存・一般公開されています。1972年(昭和47年)国の重要文化財に指定されました。設計者である堀江佐吉の最高傑作であるとともに弘前を代表する洋風建築であるとの声も高く、また、建築当時のまま現在まで残されている建築物は日本でも数少なく貴重なものとなっています。〜 Wikipediaより。
青森銀行記念館(旧第五十九銀行本店本館
弘前市について 
弘前市は青森県の県都・青森市の南西約30kmのところに位置する都市。人口は約18万人で、青森市(約30万人)、八戸市(約24万人)に次ぐ県内3番目の都市(人口はいずれも2010年のデータ)。青森県内3番目の都市ながら、弘前市に明治・大正期の洋風建築が数多く残っているのは、弘前が歩んだ『学都』と『軍都』だったという歴史によります。学都としては、明治6年に東奥義塾が開学し、英語教育のためにアメリカ人教師を招聘していましたし、旧制弘前高校がおかれました。軍都としては、明治29年に第八師団本部が置かれました。明治22年の時点では、仙台市、盛岡市に次ぐ東北3位の人口規模を誇ったそうです。戦後、第八師団の解散により軍都としての機能は終えましたが、国立大学(弘前大学)が新設されたことから、現在も学園都市としての性格を保ち続けています。
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