♪月光(ベートーヴェン)
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震洋特攻隊基地跡/聖ヶ浦− 鹿児島県南九州市知覧町
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知覧といえば陸軍特攻基地があったことで余りに有名ですが、薩摩半島南海岸の聖ヶ浦(ひじりがうら)という入江に、本土決戦を想定した海軍特攻基地があったことはあまり知られていません。1944年6月、マリアナ沖海戦で大敗北を喫した日本海軍は、戦局が悪化する中で、空母機動部隊の再建を事実上あきらめ、特殊奇襲兵器を優先的に開発準備するようになります。この構想に基づきつくられたのが、小型のベニヤ板製モーターボートに炸薬(さくやく)を搭載し、搭乗員が乗り込んで敵艦に体当たりする特殊奇襲兵器・『震洋』(しんよう)でした。聖ヶ浦には隊員約180名が配置されましたが、出撃が行なわれる直前に終戦を迎え、敗戦に消えた『幻の特攻基地』となりました。震洋隊基地跡のモニュメントが設置されている聖ヶ浦を訪ねました。                               (旅した日 2008年08月)


聖ヶ浦(ひじりがうら)ポケットパーク
 
 
  震洋隊基地跡のモニュメント
 
薩摩半島南端の海岸線に沿って東西に走る国道226号沿いにある
『聖ヶ浦ポケットパーク』(写真上、左)。看板に、『歴史の道しるべ フィールドミュージアム知覧』とあります。
 
このポケットパーク内に、聖ヶ浦震洋基地跡のモニュメントが設置されていて(写真下)、
『震洋の模型製作費の一部は、予科練21期聖ヶ浦会及び地元関係者の寄付金によるものです。平成8年8月』とあります。

 
     聖ヶ浦震洋隊基地跡
 
ここ聖ヶ浦には、第二次世界大戦末期に悪化する戦況のなか、昭和20年(1945年)本土決戦に備え、
海軍第125震洋隊が配置されました。震洋の由来は『太平洋を震撼(しんかん)させる』からといわれています。出撃が行なわれる直前に終戦を迎え、幸いにも隊員約180名は無事この地を離れました。
 
『震洋艇』の構造は、ベニヤ張りのボートにトラックのエンジンを積み、艇の先端部分に爆薬を載せたものでした。
スピードは時速42kmほどと伝えられています。相手の船めがけ、隊員ごと体当たりするいわば人間兵器です。鹿児島県内では、坊津、片浦、野間池、長崎鼻、喜入など18ヶ所全国に114ヶ所中国・台湾・フィリピンまで含めると、146ヶ所に基地が作られました(以上、現地の案内板より)。
聖ヶ浦に配置されたのは五型艇(写真下)で、全長6.5m、全幅1.86m、全高0.9m、トヨタ特KC型ガソリンエンジンを2個搭載、馬力134HP。250kg爆装(1個)、ロサ弾(2個)、13mm機銃(1個)搭載。乗員は2名。


聖ヶ浦

聖ヶ浦は、幅100〜150m、奥行約400mの細長い入江で、聖ヶ浦ポケットパークからわずか150m歩くと入江に出ます(写真右)。
 
聖ヶ浦は、薩摩半島の枕崎と指宿のちょうど中間の地点にあるため、
米軍の本土上陸地としては格好の地であると予想され、ここに本土決戦のための基地が設けられたのでした。
 
入江を出口に向って少し進むと左手(東側)前方に開聞岳が見えてきます(写真下)。

−補遺−
震洋は、第十八震洋隊長として加計呂麻島(奄美大島)に駐屯するも、出撃前に終戦を迎えた小説家・島尾敏雄でその名が知られています。当時の状況は、駐屯中に知り合った大平ミホ(後の妻)との逢瀬を描く『島の果て』、特攻隊員として出撃を待つ『出発は遂に訪れず』などで述べられています。また、聖ヶ浦から西に20数kmのところにあった坊津の震洋隊基地に海軍通信下士官として赴任した小説家・梅崎春生は、その経験に基づいて『桜島』『幻化』を書きました。
 
【参考にしたサイト】
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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