♪無言の語り部
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隼人塚 − 鹿児島県隼人町
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古代南九州に住む人々は、熊襲(くまそ)・隼人(はやと)と呼ばれていました。隼人は、奈良時代、律令制による薩摩国(薩摩半島を主とする地域)・大隅国(大隅半島を主とする地域)建国の以前から、大和朝廷に朝貢(ちょうこう)し、一部は奈良やその周辺に移住して朝廷に仕え、宮門の警護や儀礼などを担当していました。「畿内隼人」と呼ばれたこれらの隼人とは別に南九州には、依然として大和朝廷に服従しない隼人がいて、しばしば反乱を起こしていました。最も大きかったのは、養老4年( 720年)の反乱で、隼人が大隅国の国司を殺したことから、大和朝廷はそれを鎮定するため、大伴旅人を将軍に一万人ほどの兵隊を南九州に送ります。一年数ヶ月に及ぶ戦いで、1400人余りの隼人が首を切られたり生け捕りにされたと言われます。鹿児島県隼人町には、隼人の乱に関係する史跡として『隼人塚』(国指定史跡)があります。高さ約3mの丘(盛土)の上に、多重石塔3基と、四天王石像4体が立っています。      (旅した日 2005年08月)
隼人塚(国指定史跡)
以前は熊襲塚とも呼ばれ、景行天皇の時代に討伐された熊襲の霊を鎮めるために建立されたという説、隼人の反乱で散った人々の霊を鎮めるため建てられたという説などがありましたが、近年行われた発掘調査・修理復元の結果、平安時代後期(1100年代)に建立された供養塔であることが分かりました。つまり、養老4年( 720年)隼人が反乱の後、隼人の霊を慰めるため宇佐神宮で始まった「放生会(ほうじょうえ)」が鹿児島神宮にも伝わり、祭りの神輿(みこし)が浜の市に下る途中、立ち寄って供養の儀式を行なったところが隼人塚だったと考えられています。


四天王
3基多重の石塔を守るように、四隅には4体の四天王石像が立っています。千年前後の風雪に耐えてだいぶん風化が進んでいますが、石像の表情はその分かえって深みを増しているように思われます。


隼人塚史跡館
   
  隼人塚史跡館蔵   西都原考古博物館蔵
     (レプリカ) 
           
隼人の楯(たて)          
隼人町立隼人塚史跡館(写真上)は、隼人塚の歴史や由来や古代の熊襲・隼人に関連した内容を示す写真パネル、・文献の展示・平安時代に作られた石仏である「正国寺跡康治元年銘石仏及び無銘如来形石仏」(写真下左、県指定有形文化財)などが展示されています。〒899-5106 姶良郡隼人町内山田287番地1(TEL・FAX 0995-43-7110)、開館時間9:00〜17:00、月曜日は休館。

鹿児島神宮
隼人町にある鹿児島神宮は古事記に登場する海幸彦・山幸彦の神話の地です。創建は、神武天皇の代とも、それ以前とも伝えられていて、少なくとも1100年以上の歴史を有すると言われます。ご祭神は山幸彦である天津日高彦穂穂出見尊(あまつひだかひこほほでみのみこと)と豊玉比売命(とよだまひめのみこと)です。社殿は、宝暦6年(1756年)に24代島津重年公によって建立・寄進されたもので、丹塗り造りの、全体的に開放的で明るい雰囲気の寺院です。鞍に造花などを華やかに飾り付けた30頭近い「鈴かけ馬」が、ステップを踏むように踊る「初午祭」は、毎年20万人の人出で賑わいます。宇佐神宮の力が及ぶようになり、隼人の霊を慰めるため宇佐神宮で始まった「放生会(ほうじょうえ)」が鹿児島神宮にも行なわれるようになりました。


贈於の岩城(国分市・城山公園)
隼人塚から東へ3kmのところに、隼人が最後まで立て籠もった城の一つ「贈於(そお)の岩城(いわき)」がありました。現在は、国分(こくぶ)市城山公園(標高192m)となっています(写真下左)。城山公園に上る旧登山道には、岩を削って造られた中世の山城の門跡が残っています(写真下右)。頂上から眺める錦江(きんこう)湾と桜島の景色は、古代も今同様に素晴らしかったことでしょう(写真上)。
 レポート ・宇佐神宮と隼人の乱


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