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ゴンザ像 |
ゴンザは予期せぬ運命に翻弄、孤独に苛(さいな)まれながらも、わずか3年の間に約12,000語に上る世界最初の露和辞典『新スラブ・日本語辞典』ほか5冊もの大著を著(あらわ)しました。元文4年(1739年)12月、ゴンザは21歳の若さで、再び故郷の地を踏むことなく異国の地で没しました。ゴンザが遺した日本語はすべて薩摩弁だったことから、日本の近世言語史を飾る得難い資料となっただけでなく、18世紀前半の非常に価値の高いロシア語の資料ともなりました。
[2010年12月5日ロシア・サンクトベテルブルグよりゴンザとソーザの御霊(みたま)を羽島に迎えた。幼くして過酷な運命に遭遇しながら、己の力で道を切り開いたゴンザとソーザの奇跡ともいえる力を、地球繁栄と住民の幸せのため、祠を建立し御霊を祀ることとする。] |
平成23年6月吉日 羽島崎神社 |
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ゴンザの由来 |
ゴンザは享保2年(1718年)薩摩国の漁師の子として出生しました。享保13年(1728年)11歳の時に、第22代島津継豊の命を受け、大阪へ向けて続米(つづきまい)を積んだ若潮丸に舵(かじ)取りの父と共に乗り組み、薩摩の港を出帆しました。船が折悪しく嵐にあい、太平洋に流され、半年余り海上を漂流しました。そしてロシア領カムチャッカに漂着しました。助かった喜びもつかの間、ゴンザとソーザ(ソウザ)の二人だけが生き残り十五人が他界しました。享保16年(1731年)二人はヤクーツク・トボリスクを経てモスクワに赴き、同19年(1734年)ベテルブルクのアンナ・ヨアノヴナ女帝に拝謁。既に流暢なロシア語を駆使していた聡明なゴンザ少年に感銘を受けた女帝は、科学アカデミーでロシア語文法を学ばせ、女帝の勅命で日本語教師になりました。 |
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