レポート | ・ゴンザ |
− ゴンザ −
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ゴンザという薩摩人の名前は鹿児島県外の方には馴染が薄いでしょうし、県内でも知らない人がたくさんいるかも知れません。ゴンザは、11歳でロシアのカムチャッカに漂流し、二度と故郷の地を踏むことなく21歳の若さでロシアで亡くなりました。 予期せぬ運命に翻弄されながらも、聡明なゴンザ少年は早期にロシア語をマスターし、やがて世界最初の露和辞典である『新スラブ・日本語辞典』ほか5冊もの大著を著しました。 (1)ゴンザ少年 江戸時代、薩摩藩第5代藩主・島津継豊(つぐとよ)の命を受けて若潮丸が大阪に向けて薩摩国の港を出帆したのは、享保13年(1728年)11月のことでした。乗組員は、舵手を務める父とその息子ゴンザを含めて17名。父は、ゴンザに航海術を教えようと乗船させたのでした。 船は折悪しく嵐にあい、太平洋に流され、半年余り海上を漂流します。そして、ロシアのカムチャッカに漂着。しかし、助かったと喜んだのもつかの間、コサック(帝政ロシアの軽騎兵)に略奪され、15人が殺されてしまいました。生き残ったのは11歳のゴンザと、最後までゴンザと行動を共にする35歳のソウザの二人だけでした。 (2)露日辞典の編纂 漂着から2年後の享保16年(1731年)、二人はヤクーツク・トボリスクを経てモスクワへ送られ、同19年(1734年)ベテルブルクのアンナ・ヨアノヴナ女帝に拝謁しました。聡明なゴンザはその頃には流暢なロシア語を駆使していたといわれます。 女帝は、ロシア語を流暢にしゃべるゴンザ少年に感銘を受け科学アカデミーでロシア語文法を学ばせ、勅命により日本語教師に就かせました。元分元年(1736年)にソウザが43歳で亡くなると、その死の悲しみを忘れるかのように、ゴンザは『新スラブ・日本語辞典』の執筆を始めました。 その後、元分4年(1739年)に21歳で亡くなるまでの3年間の間に、『新スラブ・日本語辞典』を含む6冊もの辞典を著しました。収録語は約1万2千語に及ぶといわれます(但し、日本語は薩摩弁)。 (3)ゴンザの資料発見 ゴンザという薩摩人が存在したことおよびその偉業がわが国で知られるようになったのは昭和35年(1960年)のことでした。当時九州大学教授であった村山七郎氏(日本の言語学者)は、同年モスクワで開催された国際東洋学者会議で、ソ連の言語学者の女史がゴンザの辞典に触れたのを聞き、それがきっかけでゴンザの『新スラブ・日本語辞典』を目にすることになります。 村山氏は、昭和38年(1963年)から、国内の言語学会でゴンザの偉業の報告を始め、ゴンザ研究のかたわら、関連の著書を刊行しました。昭和60年(1985年)氏が鹿児島県内で『薩摩人ゴンザと露日辞典』という講演を行って以来、ゴンザのことが広く県人に知られるようになりました。 (4)ゴンザ像について ゴンザはカリンキンスコエ墓地に、ソウザはボズネセンスコエ墓地に埋葬されましたが、当時のロシアでは功績者については肖像画や蝋人形を作る習慣があり、ソウザ、ゴンザとも、死後、蝋でデスマスクが作られました。 これを撮影したゴンザ像の写真が知られています。二人の蝋人形は、ペテルブルグ大学附属の人種博物館に保存されていて、見ることができるそうです。二人の蝋人形は東南アジアの人類のタイプを見せるように作ったという説もあり、デフォルメ(対象を変形して表現すること)された可能性があるともいわれているようです。 (5)ゴンザの出身地はどこ? ゴンザの出身地は鹿児島県のどこだったのか、主としてゴンザファンクラブの人たちの間で特定の試みが行われてきましたが、ゴンザの存在が人々の間で認知されるようになって以来30年近くが経つのに、未だに決定的なものは出ていません。 下記参考文献の著者・橋口滿氏は、現在県県内に残る鹿児島方言と12,000語におよぶゴンザの薩摩方言の比較検討を重ね、 385語以外の語は、県内各地に分布する日常性のある鹿児島方言であり、385語中376語が旧串木野市(現いちき串木野市)の方言と符合するとし、ゴンザの出身地をいちき串木野市羽島に絞れるのではないかとしています。 平成23年(2011年)6月、ゴンザとソウザの御霊(みたま)を祀る『ゴンザ神社』がいちき串木野市羽島の羽島崎神社内に建立されました。なお、ゴンザ、ソウザという名前は、『権左衛門』『早左衛門』に由来するのではないかと推察されています。 下記の旅行記があります。 ■ゴンザ通り、ゴンザ神社 − 鹿児島県 → http://washimo-web.jp/Trip/Gonza/gonza.htm 【参考文献】 橋口滿著『ゴンザの魂、羽島へ漂流からの生還』(高城書房、平成22年11月発行) |
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