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旅行記 ・五個荘金堂町 − 滋賀県東近江市  2010.12
五個荘金堂町
(重要伝統的建造物群保存地区)
安福寺(祭・馬場通り)の風景。郵便ポストは現役で使用されています。
祭・馬場通りの風景
江戸後期になると呉服や綿・絹製品を中心に、商圏を日本全国に拡大させていきました。明治期になると、京都・大坂・江戸へ出店する豪商も現れるようになり、日本各地はもちろん、一部の商人は朝鮮半島や中国大陸へも進出するようになりました。商人の本拠地でありながら店はなく、本宅だけが置かれたのが、近江八幡など他の商人町とは異なる五個荘の特色であり、商人たちは成功後も本宅や郷里を大切にし、金堂の優れた景観を発展させたのでした。した(参考:ウィキペディア)。 
  五個荘金堂町 
『五個荘金堂町』(ごかしょうこんどうちょう)は、古代条里制の区画割りを残す農村地帯であると同時に江戸末期から昭和初期にかけて活躍した近江商人の発祥の地でもあり、水田風景のなかに商人屋敷と社寺仏閣が甍を並べる町並みが重要伝統的建造物群保存地区(農村集落)に選定されています。金堂村は稲作中心の農村でしたが、農業だけでは生活が苦しかったため、江戸中期以降、副業として行商に出る商人が現れました。
近江商人屋敷前バス停
 直進すると堂中(どうなか)通り、左折すると寺前・鯉通り、右折すると近江商人屋敷へ
寺前・鯉通り
お寺が並ぶ通りの水路に泳ぐ鯉、五個荘金堂町の代表的な風景です。
白壁石垣が鯉の泳ぐ水面に映ります。
弘誓寺の鐘楼
浄栄寺
金堂という地名の由来に関わる寺院。その昔、聖徳太子がこの地を訪れた際、不動坊という僧とともに、大きな金堂を立て、これにより村の名前を金堂としました。不動坊が不動院を建立しますが、その建物が朽ちてしまった後、浄栄法師が再興し、浄土宗『清光山不動院浄栄寺』と号したといわれます。
  弘誓寺(ぐぜいじ) 
文字通り、お寺が建ち並ぶ通りに沿った水路に鯉が群れている『寺町・鯉通り』は、五個荘金堂町を代表する風景の一つです弘誓寺(写真上・左)は、真宗大谷派寺院。那須与一の孫の愚咄坊(ぐとつぼう)の開基といわれる。本堂は、規模が大きく大屋根の様相は、御坊格寺院の本堂に匹敵し、主要部は国指定重要文化財。表門の瓦には、那須与一に由来する扇の紋が入っているのが見所。
『金堂』という地名に関わる浄栄寺
 
近江商人屋敷
近江商人屋敷・外村宇兵衛邸
近江商人屋敷・外村宇兵衛邸
 外村繁邸
四代目外村宇兵衛の妹に婿養子・吉太郎を迎えて分家したのが始まりで、東京日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開いて活躍しました。吉太郎の三男は、私小説家として知られる外村繁(1902〜1961年)で、一時家業を継ぎ商人となりますが、弟に家業を託し文学の道に進みました。近江商人を題材とした小説や自らの人生をつづった作品を残しています。
   外村宇兵衛邸
初代外村宇兵衛(1777〜1820年)は、近江商人であった六代目外村与左衛門の末子。後に分家して独立経営。主に呉服太物を商い、明治期には全国の長者番付に名を連ねます。明治29年(1896年)頃の隆盛時には、2720uの敷地に主屋・書院・大蔵など、蔵が十数棟建ち並んでいました。母屋は万延元年(1860年)の築。外村繁邸の本家に当たります。
 近江商人屋敷へ
近江商人屋敷・外村繁邸
 
花筏通り
通りの名前は、近江商人を題材に書いた外村繁の小説『花筏』(はないかだ)に由来するのでしょうか
 
あきんど通り
あきんど通りの佇まい
あきんど通りから花筏通りを見る
中江準五郎邸
中江準五郎邸(写真下)は、昭和初期、朝鮮半島や中国の約20店舗の三中井(みなかい)百貨店を築き『百貨店王』と呼ばれた中江家4兄弟の末弟の準五郎の本宅を改修して公開されている屋敷で、近江商人の気概がしのばれます。
  金堂まちなみ保存交流館
(旧中江富十郎邸)
特定非営利活動法人『金堂まちなみ保存会』が中心になって、五個荘金堂町も町並みの保存と伝承にかかる事業および新たなまちづくりの推進が行われていますが、その活動拠点になっているのが金堂まちなみ保存交流館(写真下)です。
金堂まちなみ保存交流館
近江商人屋敷・中江準五郎邸
【参考サイト】
(1) ウィキペディア-五個荘金堂町のページ
(2) ぶらり『五個荘』
 
 レポート ・てんびんの詩
 
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