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旅行記 ・伏見の風景 − 京都市 2016.02.07
べんてんはま
弁天浜
弁天浜 十石舟乗船場
弁天浜 伏見港・宇治川派流は文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の伏見城築城にともなう建築資材を運ぶため、宇治川の流路改修工事によりつくられた内陸の河川港です。 伏見城の外堀であった濠川につながる宇治川派流沿いには江戸時代に問屋、宿屋、酒蔵が建ててられ、米や薪炭、できた酒などを運ぶ小舟が往来していました。現在も柳に酒蔵が映える往時の佇まいを残しています。
弁天浜 駒板案内
淀川三十石船をはじめとする大小の船で賑わった伏見港の中心地は現在の京橋付近でした。前を流れる宇治川派流の両岸は総称して伏見浜と呼ばれる荷揚げ場で、弁天橋の西は主に材木を荷揚げしたことから本材木町という町名が残されています。月桂冠旧本店のある付近は馬借前として、大阪からの旅人や船から荷揚げされた物資が馬や荷車に積み替えられ、陸路を行くための中継基地として繁栄を極めました。 なお、このあたりの浜は弁天浜とも言われています。以上、現地の駒板案内から。
宇治川派流の十石舟(著者:663highland、 伏見十石舟-Wikipediaより)y
弁財天長建寺
朱色の竜宮門が印象的な長建寺
長建寺 真言宗醍醐派の寺院で、一般に『島の弁天さん』として親しまれています。豊臣秀吉没後、徳川3代まで使われた伏見城は元和5年(1619年)に廃城となり、以後伏見の町は衰退。13代目伏見奉行・建部政宇(たけべまさのき)は、元禄12年(1699年)、壕川を開拓して中書島を開発します。
長建寺 竜宮門
その際、深草大亀谷の即成就院から塔頭多門院を分離して現在地に移築しました。建部姓の一字と長寿を願いと名づけたのが寺の起こりとされます。かつての中書島遊郭の一角にあり、脇仏は珍しい裸形弁財天。7月に弁天祭があります(第4日曜日)。京都で御本尊が弁財天という寺はここしかありません。朱色の中国風竜宮門、朱色の土塀が特徴。
フリ山門迎福
酒蔵の街並み
宇治川派流岸から望む『月桂冠大蔵記念館』
伏見 伏見は、京都市の南の玄関口にあたり、桂川、鴨川、宇治川の3つの川に沿った平野部と桃山丘陵を南端とする東山連峰の山並みから構成されています。伏見の歴史は古く、日本書記には『山城国俯見村』として記されているそうです。平安時代には、風光明媚な地として皇室や貴族の別荘がおかれました。
『桂冠大蔵記念館』の風景
安土桃山時代になると、豊臣秀吉が伏見城を築城して一大城下町を形成、絢爛豪華と言われる桃山文化を開花させました。江戸時代には、京都と大坂を結ぶ淀川水運の玄関口として栄え、日本最大の河川港となり、幕末には坂本龍馬をはじめとする勤王の志士たちとともに近代の夜明けの舞台となりました。
『月桂冠大蔵記念館』の風景
伏見の清酒 伏見は、兵庫県の『灘』、広島県の『西条』とともに日本三大酒処といわれ、伏見の清酒の歴史は古く、日本に稲作が伝わった弥生時代に始まったとされています。以来、脈々と受け継がれてきた酒づくりの伝統が安土桃山時代に花開きます。太閤秀吉の伏見城築城とともに伏見が大きく栄えると、需要が高まる中で伏見の酒は一躍脚光を浴びるようになりました。
酒蔵の家並み
さらに江戸時代には、水陸交通の要衡として伏見がますます発展するのにともない、酒造家が急増し銘醸地の基盤が形成されていきました。そして、明治の後半には、天下の酒どころとして全国にその名とどろかせるようになります。現在、伏見酒造組合には月桂冠、黄桜、松竹梅の宝酒造株式会社など、24の蔵元が加盟しています。
正面奥の白い建物が現在の月桂冠本社
月桂冠大倉記念館 月桂冠発祥地に建つ酒蔵(1909年(明治42年)築)を改装し、創業350年にあたる1987年(昭和62年)に開設された、伏見の酒造りと月桂冠をテーマとする博物館。酒造用具である焼印・朱印・銅板・金型などの出荷用具、樽造り用具までが常設展示されています。
正面に『鳥せい本店』の看板
鳥せい本店 鳥せい本店は、創業三百年の老舗・清酒『神聖』((株)山本本家)直営のお店。蔵の一棟を改装した、大正から昭和初期の情緒がたっぷり漂う建物の中で、蔵出しの日本酒と新鮮な鶏料理が味わえます。毎日直送される『日南鶏』を使用しているそうです。居酒屋『鳥せい』チェーンを展開中。
『鳥せい本店』の家並み
大倉家本宅 大倉家本宅(写真下)は、1828年(文政11年)、第8代目当主・大倉治右衛門の時代、月桂冠創業の地に建てられた酒蔵兼居宅で、坂本龍馬が伏見に立ち寄った1850から60年代にはすでに存在していました。1868年(慶応4年)の鳥羽伏見の戦では、通りをへだて北側の建物やその並びの船宿、町家の多くは焼失しましたが、大倉家本宅は羅災をまぬがれました。
『大倉家本宅』(その左が現在の月桂冠本社)
幕末・維新の激変期を経て、築 180年以上を経た現在も、創業当時の居様を残し、今日に受け継がれています。内部には米の洗い場、吹き抜け天井の小屋組み、商いに使われた座敷など、昔ながらの酒屋の佇まいが残り、表構えには、虫籠窓(むしこまど)や太めの木材を組み合わせた酒屋格子(さかやごうし)が見られます。
『伏見夢百衆』
伏見夢百衆 大倉家本宅の隣りにある伏見夢百衆(写真上)は、大正8年(1919年)に建造された月桂冠株式会社の旧本店社屋を活用した喫茶・土産販売・観光案内所です。伏見の清酒約 100種をはじめ、様々な伏見名物を販売。喫茶ではきき酒やお酒の仕込み水で点てた、水出し珈琲・紅茶をはじめ甘味類が豊富に揃っています。
黄桜株式会社
河童のイメージキャラクターでお馴染みの『黄桜株式会社』(写真上)。お土産に買って帰った齊藤酒造株式会社の本醸造『 英勲』(やや辛、やや濃醇)と玉乃光酒造株式会社の純米吟醸『凛然玉乃光』(山田錦100%、香り穏やかで、やや辛口)。グラスは、滋賀県長浜の『黒壁スクエア』で別途購入。
土産に買った『英勲』と『玉乃光』
 
 伏見土佐藩邸跡
伏見土佐藩邸跡
伏見土佐藩邸跡 土佐藩は塩屋町で3軒分、南浜町で1軒分の町役を負担していました。町役とは物や労働力を負担する税金の一つでした。南浜町の藩邸には藩主や正室・側室・腰元らの生活をする御殿はなく、家臣の生活や労働の場であったと考えられます。慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いで土佐藩兵は警備についてはいましたが、藩主・山内容堂は『このたびの戦争は薩摩・長州と会津・桑名の私闘であるから、沙汰をするまでは戦争に加わることを禁止する』と告げていました。しかし、藩大目付の板垣退助は『京都で事が起これば、黙って薩摩と行動を共にせよ』と、密命を出していました。藩士の一部は藩主の命令を無視して参戦、徳川軍が敗退したので、土佐藩主は『復古討賊に大功あり』として、朝廷から称賛をされました。現地案内板を参考
寺田屋跡地と旅籠
寺田屋跡地
寺田屋は『寺田屋騒動』と『坂本龍馬襲撃事件』(寺田屋遭難ともいう)の舞台になった船宿。文久2年(1862年)4月23日、薩摩藩急進派有馬新七以下35名が関白九条尚忠と京都所司代の殺害を計画して集結、薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせましたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡しました(寺田屋騒動)。
旅籠『寺田屋』 
慶応2年(1866年)正月21日、坂本龍馬が幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれ襲われましたが、それにいち早く気付いたお龍が風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり、龍馬らに危機を知らせたので、からくも難を逃れ九死に一生を得ました(坂本龍馬襲撃事件)。
旅籠『寺田屋』 
当時の寺田屋は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失し、その跡地は現在史跡庭園となり、寺田屋騒動で戦死した倒幕派薩摩藩士の石碑や龍馬像が建てられています。現在の『旅籠寺田屋』(写真上・下)は、その後当時の敷地の西隣に旧宅にならう形で再建されたものだそうです。
旅籠『寺田屋』  
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