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旅行記 ・福沢諭吉旧居 − 大分県中津市 2014.01
福沢諭吉旧居
福沢諭吉旧居
福沢諭吉旧居 諭吉は、1歳6ヶ月の時父が急死したため、天保7年(1836年)秋、母子6人で大坂の中津藩蔵屋敷から藩地の中津に帰って来ました。最初に住んだ家は、大坂赴任前の父が住んでいた小さな家で、建物は現存せず、宅地跡だけが整備され見学できます(福沢旧居の駐車場脇に位置しています)。
 福沢諭吉旧居
その後、16歳の時に買って移り住んだのが現在残されている福沢旧居です。母屋の他、自らが改造して二階を勉学に使った土蔵が残っています。諭吉は、近くに家塾を開いていた中津藩儒学者・白石照山に師事して儒学を学んでいたましたが、安政元年(1854年)19歳のとき、兄三之助のすすめで蘭学を学びに長崎へ出ました。
母屋(正面)と土蔵(右)
諭吉は、19歳までこの場所で過ごしました。旧居は、母屋が木造藁葺平家建で107m2(約32坪)、宅地380m2(25坪)で、木造瓦葺の土蔵は15m2(約4.5坪)あります。旧居に隣接して記念館が建てられ、諭吉の書いた数多くの著書や写真、遺品、残墨など様々な資料が展示されています。
母屋から庭(土蔵)を見る
福沢諭吉旧居 諭吉は、長崎へ遊学に出た翌年の安政2年(1855年)からは医者で蘭学者の大坂の緒方洪庵の適塾へ入門し勉学に励みました。安政5年(1858)には、藩命により中津藩蘭学所教師として江戸に上り、後の慶応義塾の創始となる蘭学塾を開きました。蘭学から英語の時代になると考えた諭吉は独学で英語を学び、万延元年(1860)渡米使節の随員として、勝海舟が艦長を務める咸臨丸に乗り込み、ジョン万次郎らとともに渡米。
福沢先生邸宅の石碑
帰朝後、幕府の外国方に雇われます。以後、ヨーロッパ諸国も歴訪し、社会の制度や考え方などに旺盛な好奇心で見聞を広めました。その後、『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』など多くの著書を続々と出して、当時の日本人に西洋文明の精神を伝え、わが国の民主主義思想の普及に大きな影響を与えました。
諭吉が勉強部屋にした土蔵
土蔵の話 母屋から庭を眺めて左手にある小さな二階造りの土蔵。諭吉が少年の頃、自分で手直しをし長崎へ遊学(西暦1854年)をする19才ごろまで、米をついたり二階の窓辺で学問を続けた土蔵です。土蔵に入って急な階段をのぼると、窓が一つしかない薄暗い二階部屋に、勉強をする諭吉人形がおいてあります。
土蔵の二階で勉強する諭吉少年
諭吉は、5歳頃から藩士に漢学と一刀流の手解きを受け始めますが、初めは勉強嫌いだったそうです。14、5歳になってから、近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始めました。しかし、始めてみるとすぐに実力をつけ、以後様々な漢書を読み漁り、漢籍を修め、頭角を現してきました。
死客に狙われた話
刺客に狙われた話 明治3年10月、母と姪を迎えに中津に帰った時の事です。中津の若い藩士のなかには、諭吉を西洋かぶれと嫌い暗殺しようと狙う者がいました。その動きを察知した服部五郎兵衛(福沢家の親戚)は夜福沢家を訪問し、いつまでも酒を飲みながら夜中の1時を過ぎても話し込んでいるので、諭吉が寝入るのを狙っていた刺客はその機会を逃し、諭吉は命拾いをしました。(実は、刺客は諭吉の再従兄弟に当たる増田宗太郎でした。)
 白鷺稲荷社
白鷺稲荷社 福沢諭吉旧居の敷地内にある稲荷神社。学業成就、入試合格以外に商売繁盛、五穀j豊穣、家内安全、交通安全とありますが、学業成就、入学合格などを祈願するため、受験生をはじめ多くの方が訪れ、入試合格の絵馬が多いという以外、ネットでも由来などは検索できません。
 白鷺稲荷社の絵馬
旧暦二月の最初の午の日は、『初午』といわれ、京都・伏見稲荷大社を御本社にあおぐ、全国のお稲荷様のお祭りの日に当たるため、この白鷺稲荷社では、中津市長、関係者らが出席して『初午祭』がとりおこなわれ、中津市の発展や市民の健康が祈願されるそうです。
大阪から帰って最初に住んだ旧宅の図
福沢諭吉旧宅 福沢諭吉が1歳6ヶ月の時父が急死したため、天保7年(1836)秋、母子6人で大坂の中津藩蔵屋敷から藩地の中津に帰って来ました。 最初に住んだ家は、大坂赴任前の父が住んでいた小さな家で、建物は現存しませんが、宅跡として整備され見学することができます(福沢旧居の駐車場脇に位置しています)。その後、移り住んだ家が、現在残されている福沢旧居です。
大阪から帰って最初に住んだ住居跡
【参考サイト】
(1)
福澤諭吉旧居(公益財団法人 福澤旧邸保存会 公式ホームページ)
   レポート ・中津隊、増田宗太郎
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