レポート  ・中津隊、増田宗太郎   
− 中津隊、増田宗太郎 −
 
 福沢諭吉
 
勝海舟が艦長を務める咸臨丸(かんりんまる)に乗り込んで、福沢諭吉が、ジョン万次郎らとともに渡米したのは、万延元年(1860年)のことでした。福沢25歳。7年前の嘉永6年(1853年)には、ペリー提督の率いる黒船が浦賀に来航、7年後の慶応3年(1867年)には、第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上する、いわゆる大政奉還が行われるという、まさに、明治維新へ向けての幕末の混乱期のまっただ中でした。
 
帰朝後、福沢は幕府の外国方に雇われます。以後、ヨーロッパ諸国も歴訪し、社会の制度や考え方などに旺盛な好奇心で見聞を広めました。その後、『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』など多くの著書を続々と出して、当時の日本人に西洋文明の精神を伝え、わが国の民主主義思想の普及に大きな影響を与えました。
 
この福沢諭吉が、兄三之助のすすめで蘭学を学びに長崎へ出る19歳までの幼年期を過ごした大分県中津市に旧居が残されていて見学することができます。旧居内には、立て札が立てられ、旧居にまつわるエピソードがいくつか紹介されています。その一つが『刺客に狙われた話』です
 
刺客に狙われた話
明治3年10月、母と姪を迎えに中津に帰った時の事です。中津の若い藩士のなかには、諭吉を西洋かぶれと嫌い暗殺しようと狙う者がいました。その動きを察知した服部五郎兵衛(福沢家の親戚)は夜福澤家を訪問し、いつまでも酒を飲みながら夜中の1時を過ぎても話し込んでいるので、諭吉が寝入るのを狙っていた刺客はその機会を逃し、諭吉は命拾いをしました。(旧居内の立て札より転載)
   
 増田宗太郎
 
このエピソードに登場する刺客こそ、のちに中津隊を組織して、西南戦争へ従軍する増田宗太郎(ますだ そうたろう、1849〜1877年)でした。増田は、中津藩下士増田久行の嫡男として生まれます。母は九州国学の三大家の一人で、平田篤胤直系の弟子である渡辺重名の娘。父は儒学者・福沢百助の妻のいとこですから、福沢諭吉とは再従兄弟(またいとこ)の関係にあり、家も近くにありました。
 
渡辺重名の孫の渡辺重石丸が始めた国学塾に入門し、平田篤胤派国学を学び、尊王攘夷思想に開眼します。明治3年(1870年)、上京して政府の文明開化・開国和親の方針を確認した増田は、維新政府に幻滅と深い憎悪を抱きます。
 
時代の文明開化のリーダーは、再従兄弟の福沢諭吉。諭吉への不満を募らせた増田は同志と暗殺計画を企てます。明治3年(1870年)に諭吉が帰郷した際、寝込みを襲おうと福沢邸に乗り込むものの、諭吉は来客した服部五郎兵衛と夜通し飲み明かしたためこの計画は失敗し、逆に論吉に心服し、そのまま藩邸の慶應義塾に入学することになりました。
 
明治7年(1874年)に佐賀の乱が勃発すると、中津士族を統合して数百名を集めて部隊の編成に成功し、江藤新平に合流しようと佐賀に赴きましたが、増田らが到着したとき、乱はすでに鎮圧されていました。
 
帰郷して中津に自由民権運動の結社を設立。板垣退助が林有造を送って祝したともいわれる。村上田長によって、自由民権・主権在民を掲げた『田舎新聞』が創刊されると編集長を務めます。
 
 西南戦争
 
明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると64名で中津隊を結成し、3月31日蜂起。中津支庁や大分県庁を襲撃し、4月5日熊本県の阿蘇郡で西郷軍に合流、中津隊は以後各地に転戦。増田は最後まで西郷隆盛に付き従い、最後は鹿児島城山の戦いで戦死したとも、捕えられて斬首されたともいわれます。享年28。
 
司馬遼太郎は、著書『翔ぶが如く』(文藝春秋)で、”中津隊の首領増田宗太郎については、触れるべきことが多い。”と書いています。
 
西南戦争最後の激戦『和田越の決戦』(宮崎県延岡市)において敗れた西郷隆盛は、翌日の明治10年8月16日、薩軍に解軍の令を出します。官軍が包囲する可愛岳(えのだけ)を突破して山中を彷徨(ほうこう)中、三田井(宮崎県西臼杵郡高千穂町)に達した頃、増田は中津隊の残存者につぎのように告げます。
 
『薩軍は鹿児島にむかう。われわれ中津隊の役目は済んだ。ここから北すれば、故郷の豊前へ帰ることができる。誰彼よ、ここから中津へ帰れ』
 
すると、中津人たちは、増田だけ薩軍にとどまり、他に対しては故郷へ帰れというのは道理にあわないと、そのあいまいさを衝(つ)いてきました。そこで、増田は、『自分は諸君から選ばれて隊長になった。隊長になると、自然、西郷という人格にしばしば接した、諸君は幸いにも西郷を知らない、自分だけがそれを知ったが、もはやどうにもならぬ』
 
といい、たちまち涙を流します。増田宗太郎が、このときいった言葉が中津の人々に記憶されているといいます。
 
吾(われ)、此処(ここ)に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ。
   
 天賦人権論
 
肥後国荒尾村(現熊本県荒尾市)生まれに宮崎八郎(1851〜1877年)という人がいました。ルソーの『社会契約論』の部分訳である中江兆民の『民約論』に影響を受け、自由民権運動のリーダとして、明治8年(1875年)、熊本県植木町に『植木学校』を設立します。西南戦争が勃発すると、民権家同士と『熊本協同隊』を結成し、薩軍に合流。桐野利秋のもとでともに政府軍を相手に戦いますが、熊本県八代市で戦死しました。享年26。
 
増田宗太郎と中津隊が薩軍に参加したのは、薩軍が田原坂を敗退して形勢が悪化してからであり、薩軍の敗勢を十分に知りつつの参加でした。そして、増田は募兵において、『人民天賦の権利を回復し』といって檄(げき)を飛ばしたといいます。
 
司馬遼太郎は、『翔ぶが如く』に、
 
”熊本協同隊がルソーの民約論を聖書としたような徹底性はなくとも、福沢仕込みの英国風の天賦人権論は増田の脳裏にあったに相違なく、この点、士族の権益の回復をねがうエネルギーとは別趣の思想をもっていたといっていい。”と書き、
 
”福沢は、反対党を許さない政権をかれの近代思想の立場から憎悪した。その意味で西郷と西南戦争を大きく評価し、そのなかに増田以下の中津士族がいたことになによりも満足した。”と書いています。
 
鹿児島市の南洲墓地に『中津隊士之墓』と『増田宗太郎墓』があり、大分県中津市の安全寺にも増田宗太郎の墓があります。また、中津城公園地には、水島銕也(中津出身、神戸高等商業学校(神戸大学の前身)の創立者)によって『西南役中津隊之碑』の大顕彰碑が建てられています。
 
つぎの旅行記が参考になります。
 ■旅行記 ・福沢諭吉旧居 − 大分県中津市
 
〔用語〕
天賦人権論(てんぷじんけんろん)=すべて人間は生まれながらに自由かつ平等で、幸福を追求する権利をもつという思想。
 
【参考図書】
本レポートを書くに当たり、司馬遼太郎・著『翔(と)ぶが如く(十)』(文春文庫/2012年6月新装版第10刷)を参考にし、一部転載させて頂きました。
 

  2014.04.16 
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