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旅行記 伝・真田幸村の墓 − 鹿児島県南九州市 2016.02.21
伝・真田幸村の墓
私有林の中にひっそり佇む『伝・真田幸村の墓』
薩摩半島の南端部の
頴娃
(えい)町と知覧町、川辺町は合併して南九州市となり、
日本一のお茶生産高の市町村となりました。
頴娃の風景のシンボルはお茶畑と遠望の開聞岳
その頴娃に、
『雪丸
(ゆきまる)』という集落があるのを知ったのはもう30年以上前のことです。ほとんど雪の
降らない頴娃に『雪丸』って不思議だなと思ったものです。
雪丸(ゆきまる)バス停
それから何年か経って、
この地に落ち延びたという真田幸村の『幸村』が訛った地名だといわれているのを知りました。
その雪丸集落にある『伝・真田幸村の墓』を訪ねました。
雪丸集落の風景
慶長20年(1615年)6月3日、
真田幸村は、大阪夏の陣で徳川家康をあと一歩のところまで追い込みながら、武運尽きて
安井神社(大阪市天王寺区)の境内で討取られてしまいます。
『伝・真田幸村の墓』の入口に着きました。
ところが夏の陣の後、
『花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて退きも退きたり加護島へ』と
いうわらべ唄が京で流行します。
ここから約500m歩いて上ります。
わらべ唄に対応する
かのように、鹿児島県南九州市頴娃(えい)町雪丸地区には、薩摩へ逃れた真田幸村らがそこに住んだと
いう伝説があり、『伝・真田幸村の墓』なるものがあるのです。
勢いよく飛び出ていた『真田の秘水』
旧頴娃町の郷土史によれば、
『大阪夏の陣のあと、薩摩に豊臣秀頼をはじめとして、真田幸村、木村重成など1000余人の
大阪残党が逃げてきたといいます(鹿児島外史所説)。
杖(つえ)が置いてあります。
真田幸村は、入薩後、
氏名を芦塚左衛門と改め、当初谷山(現在の鹿児島市谷山)に潜伏していたが、その後、
頴娃郷淵別府(一説には雪丸集落)に移り住みました。
杉林の中を上っていきます。
この『伝・真田幸村の墓』
なるものが いつ、どのような経緯でつくられたのかはわかりませんし、伝説説はあくまでも
フィクションということでしょうが、興味は尽きません。
 
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