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伝・真田幸村の墓 |
私有林の中にひっそり佇む『伝・真田幸村の墓』 |
薩摩半島の南端部の 頴娃(えい)町と知覧町、川辺町は合併して南九州市となり、 日本一のお茶生産高の市町村となりました。 |
頴娃の風景のシンボルはお茶畑と遠望の開聞岳 |
その頴娃に、 『雪丸(ゆきまる)』という集落があるのを知ったのはもう30年以上前のことです。ほとんど雪の 降らない頴娃に『雪丸』って不思議だなと思ったものです。 |
雪丸(ゆきまる)バス停 |
それから何年か経って、 この地に落ち延びたという真田幸村の『幸村』が訛った地名だといわれているのを知りました。 その雪丸集落にある『伝・真田幸村の墓』を訪ねました。 |
雪丸集落の風景 |
慶長20年(1615年)6月3日、 真田幸村は、大阪夏の陣で徳川家康をあと一歩のところまで追い込みながら、武運尽きて 安井神社(大阪市天王寺区)の境内で討取られてしまいます。 |
『伝・真田幸村の墓』の入口に着きました。 |
ところが夏の陣の後、 『花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて退きも退きたり加護島へ』と いうわらべ唄が京で流行します。 |
ここから約500m歩いて上ります。 |
わらべ唄に対応する かのように、鹿児島県南九州市頴娃(えい)町雪丸地区には、薩摩へ逃れた真田幸村らがそこに住んだと いう伝説があり、『伝・真田幸村の墓』なるものがあるのです。 |
勢いよく飛び出ていた『真田の秘水』 |
旧頴娃町の郷土史によれば、 『大阪夏の陣のあと、薩摩に豊臣秀頼をはじめとして、真田幸村、木村重成など1000余人の 大阪残党が逃げてきたといいます(鹿児島外史所説)。 |
杖(つえ)が置いてあります。 |
真田幸村は、入薩後、 氏名を芦塚左衛門と改め、当初谷山(現在の鹿児島市谷山)に潜伏していたが、その後、 頴娃郷淵別府(一説には雪丸集落)に移り住みました。 |
杉林の中を上っていきます。 |
この『伝・真田幸村の墓』 なるものが いつ、どのような経緯でつくられたのかはわかりませんし、伝説説はあくまでも フィクションということでしょうが、興味は尽きません。 |
約10分で着きました。 |
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