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旅行記  台場公園・薩英戦争砲台跡 − 鹿児島県南大隅町 2019.03
 
台場公園・薩英戦争砲台跡
薩英戦争砲台跡
台場は、江戸時代末期に
藩内の沿岸に築かれた砲台で、台場公園には薩英戦争のなごりを残す砲台が復元展示されていて、
この史跡の台場跡は、南大隅町の文化財に指定されています。
台場公園案内板
文久2年(1862年)8月21日
島津久光の一行は薩摩(鹿児島)に帰る途中、武蔵生麦村(現横浜市)で行列を乱した英国人リチャードソンを
斬殺し二人に傷を負わせました。このことが原因となって薩英戦争が始まりました。
薩英戦争砲台跡へ
文久3年2月、薩藩は英艦の錦江湾来攻を
察知して沿岸の防備を固めましたが、この時本町の根占港津柱神社裏と現在地そして上ノ山の三カ所に五番陣
(小根占、大根占、佐多、大姶良、鹿屋)の郷士が主になって台場を構築しました。
海岸の風景
今、この砲台の跡を土地の人々は
「台場跡」とよんでいますが、台場の3メートル、幅4メートルのこのみかげ石の石垣は延長60メートルにも達し、
中央に砲身を構えた凹部が二つ残っています。近くにはエンショウ倉(煙硝庫)もありました。
薩英戦争砲台跡案内板
薩英戦争の際、発射する機会はなかったものの
錦江湾沿岸に数十の台場が構築されたなかで当時の台場として原型をはっきりととどめているのはこの台場だけだと
いう貴重な史跡です。以上、平成8年4月1日設置の南大隅町教育員会の案内板より。
薩英戦争砲台跡
薩英戦争において、薩摩方は
鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けましたが、イギリス軍も旗艦ユーライアラスの
艦長や副長の戦死や戦艦の大破・中破など大きな損害を被りました。
復元された砲台と大砲のレプリカ
この戦闘を通じて
英国と薩摩国の双方に、相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、
これが以後両者が一転して接近していく契機となりました。
錦江湾に砲身を向けた大砲のレプリカ
 
斉彬公使用の手水鉢
 
台場公園
嘉永6年(1852年)11月、
島津28代斉彬
(なりあきら)公は、藩内情勢、各郷の海岸や砲台、郷士の操練状況を
視察するため、大隅、日向の各郷を巡検しました。
 NHK新日本風土記アーカイブス 篤姫紀行(藩主斉彬の足跡)
島津斉彬公使用の手水鉢
12日鹿児島を発ち垂水、鹿屋など
を経て16日小根占地頭仮屋へ一泊、翌17日にここ原の台場を巡検し休息された。そのおり、
この石の手水鉢
(ちょうずばち)が使用されたと伝わっています。
島津斉彬公使用の手水鉢
その後、片野坂の
険しい道を登り、佐多の伊座敷・大泊へ向かわれた。従った人々は、家老島津石見、
御軍役総頭取三原藤五郎以下数十名でした。以上、現地案内板より。
松の木越しに望む開聞岳
 
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