♪ハープシコード協奏曲第5番
Piano1001

   
   
旅行記 ・旧白洲邸 武相荘 − 東京都町田市  2009.5.17
旧白洲邸・武相荘
敷地入口より撮影した風景(左手の建物が受付)
町田市指定史跡
白洲次郎・正子旧宅
  
所在地 町田市能ヶ谷町1283番外
  指定年月日 2002年11月14日

 
戦後の新憲法制定に深く関わり、東北電力会長としても活躍された白洲次郎と、美術評論家・随筆家として読売文学賞2回受賞、町田市名誉市民第一号の白洲正子のご夫妻が、能ヶ谷のこの地に農家を買いとり移住されたのは、昭和17年(1942年)であった。寄せ棟造りで東側妻面兜造りの重厚な茅葺屋根の母屋と、カキ、シタカシ、などを配した広い庭のたたずまいは、多摩地域の養蚕農家の面
武相荘地入口
影をいまに伝える貴重な文化遺産である。整型四間取の間取や材料・構造から見て十九世紀以降のもので、明治初期の建築と推定できる。養蚕農家として明治・大正・昭和と使われてきた『家・屋敷』が原型に近いかたちで今日に残されたのは、古い民家などに限りない価値を見出した、白洲ご夫妻の独自のライフ・スタイルの賜物(たまもの)であろう。冠せられた『武相荘(ぶあいそう)』という愛称も、古い農家に具わる、”静謐な美”に寄せるご夫妻の、慎み深い敬称と読みとれる。〜町田市教育委員会の案内板(写真左)より〜
 
静謐【せいひつ】=しずかでおだやかなこと。
最初のオーナーの終の棲家にやってきたベントレーXT7471の写真(休憩所にて撮影)
休憩所に掲げられた白洲次郎氏の写真
である。後年、彼の交友関係の伝(つて)を頼んでやってくる人間が便宜をはかった礼に金品を持参したりすることがあると、次郎は『馬鹿野郎、俺は大金持なんだ。そんなものもらえるか』と怒鳴りつけるのが常であったという。その乱暴な言葉の裏側にも noblesse oblige の攻撃性は一つの思想として生きていたというべきだろう。〜青柳恵介・著『風の男 白洲次郎』(新潮文庫)より〜
白洲次郎の口から時に noblesse oblige (ノブレス・オブリージュ、社会的に高い地位にある者の果たすべき義務)という言葉が発せられるのを聞いたと証言する人は多い。十年近くイギリスに遊学し、ベントレー(写真上)やブガッティーを乗り回す生活をしたという特権を、何らかの oblige(義務)として社会に還元せねばならぬというふうに考えたはず
休憩所にて
keis長屋門
旧白洲邸・武相荘は現在、記念館・資料館となり一般公開されている。館長は白洲夫妻の長女・牧山桂子。武相荘の名の由来は、『武蔵の国と相模の国の境に位置する』ことと『無愛想』を掛けたもの。1942年10月に白洲夫妻が当時の東京府南多摩郡鶴川村(現在の東京都町田市能ヶ谷町)に農家を購入した事に始まる。その数年前から白洲夫妻は、戦況の悪化による空襲や食糧難を予測して農地の付いた郊外の家を探しており、当時の使用人の親戚が鶴川村で駐在をしていた縁で購入した。
お茶処入口
長屋門を内側から見る
当時の次郎は日本水産・帝国水産統制株式会社(後のニチレイ)役員であったが、職を全て投げ打ち、退職金を注ぎ込んで購入した。内部は荒れていたため当初は東京府東京市新宿区水道町(現在の東京都新宿区)にあった自宅から通い、ゆっくり修理すればよいと考えていたが、戦況の悪化に伴い1943年5月に正式に転居。自給自足の農民生活を始める。次郎41歳、正子33歳だった。以後の次郎は終戦まで専ら農作業に勤しんだ。〜フリー百科事典ウィキペディアより〜
お茶処(右手前)と母屋(奥の建物)
ある日の帰り途(みち)、
こんもりした山懐(やまふところ)に
いかにも住みよさそうな農家を発見した。
駅からもそんなに遠くはない。
あんなところがいいな、住んでみたいなあと、
独り言のように呟(つぶや)くと、
おもわりさんは私の帰ったあとで、
直ちに交渉してくれた。
〜白洲正子・著『白洲正子自伝』(新潮文庫)より〜
茅葺き屋根の母屋の内部は撮影できませんが、ほぼ全域が公開され、白洲さんの愛した骨董や日用雑器などが展示されています。母屋入口で上履きに履き替えて入ると、農家の土間はタイル貼りに改装され応接間が置かれています。左手に上がると、囲炉裏を囲むように白洲家の食卓風景が再現されています。居間と中廊下を隔てた奥座敷には正子夫人が着用した着物や帯類が展示され、その奥隣りが書斎でした。天井の低い納戸風の部屋で、壁は全面本棚になっていて、ぎっしり本が収納されていました。
 
母屋
その家には年老いた夫婦が、奥の暗い
六畳間に、息をひそめるようにして住んでいた。
 
(中略)
 
その老人たちが住んでいた北向きの部屋が、
今は私の書斎になっているが、農家の
人々にとっては、いわば「姥捨山」(うばすてやま)
のような一隅ではなかったであろうか。
散策路入口・鈴鹿峠
石仏立像
彼らばかりではなく、四、五代前の老人たちも、
皆この部屋で命を終えたかと思うと、
見知らぬ人々であったとはいえ、
ある種の感慨を覚えずにはいられない。
五十年も住んでいれば、私にとっても何か
「結界」のような感じがして、書斎に入る度に
身の引締まる思いがするのである。

〜白洲正子・著『白洲正子自伝』(新潮文庫)より〜
 
 
結界【けっかい】=仏道修行に障害のないように、一定地域を聖域として定めた場所。
散策路の奥にある木立
長屋門を潜ってすぐ右手に二階建ての建物があります。ニ階は、特別展が開かれる『第2ギャラリー』になっていて、一階の納屋風のスペースに、アイスシェーバーや農機具などが陳列されています。村には徳川時代からの「組」と称する小さな共同体が存在し、田畑の作りから、種の撒きかた、炭の焼きかたから、芋類の保存の仕方など、いろいろなことを教えてもらったと白洲正子自伝にあります。
陳列されたアイスシェーバーや農機具(写真左・上)
■住所     〒195-0053
         東京都町田市能ヶ谷町 1284
■電話      042(735)5732
■公式HP   http://www.buaiso.com/index.html
■開館時間  10時〜17時(入館は16時半まで)
■休館日    月曜日・火曜日
         (祝日・振替休日は開館)
■入館料   1,000円(税込み)
【引用図書】
白洲正子・著『白洲正子自伝』(新潮文庫/2001年(平成13年)5月5刷)
青柳恵介・著『風の男 白洲次郎』(新潮文庫/2000年(平成12年)8月発行)
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