♪アルハンブラの想い出
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旅行記 ・アルハンブラ宮殿 − スペイン(1) 2011.07
アルハンブラ宮殿
(世界遺産)
裁きの門(Puerta de la Justicia)
『裁きの門』は、今日において、城壁で囲まれたマディナ・アル・ハムラ(アルハンブラ市街)領域への唯一の入口であり、見学もこの門から入っていきます。底面が長方形をした塔で、その側面の一部が、この王侯貴族の街の城壁とつながっています。坂道の高みに、誇り高く、威厳に満ちて立ちはだかっています。
裁きの門のアーチの要石に刻まれた『手のひら』
この名称の由来については、城塞周辺の土地の土壌が赤いからだとか、建築に使われた煉瓦の色によるとか、宮殿が赤い漆喰で覆われていたからなど諸説がありますが、アルハンブラ宮殿増築の時、夜を通してかがり火を燃やして工事したためグラナダ平野から見上げた宮殿が赤く染まって見えたことからこのように呼ばれるようになったという説が一般的に通用しているそうです。スペイン語表記では、Alhambraと綴ります。
『裁きの門』のアーチの要石に刻まれた『手のひら』(5本の指)は、イスラム教の5つの戒律(唯一絶対紳とその預言者モハメッドを信じること、日に5回の礼拝、喜捨(あるいは宗教税)、断食あるいはラマダン、少なくとも一生に一度のメッカ巡礼)を意味するといわれています。
   
  アルハンブラ宮殿
スペイン南部、アンダルシア州グラナダ県グラナダ市の南東にある、ウマの背のような形をした丘は、頂上部が長さ 740 m 、幅 205 m にわたって平坦になっており、そこにアルハンブラ宮殿はあります。宮殿と呼ばれていますが、住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えた一つの城塞都市でした。当初から全体の形が計画されていたのではなく、異なる時代に建てられた様々な建築物の複合体であり、その原形はイベリア半島南部を版図としたイスラム王国・後ウマイヤ朝(756〜1031年)のアルカサーバと呼ばれる砦だといわれます。アルハンブラとは、アラビア語で『赤い城塞』を意味するアル・ハムラが、スペイン語において転訛したものです。
筒型天井や丸天井で覆われた侵入路
 
 アルカサーバ
 アルカサーバ(Alcazaba)
コルドバに首都があった後ウマイヤ朝(756〜1031年)は、グラナダのこの丘にアルカサーバという砦(軍事要塞)を築きました。これが、アルハンブラ宮殿の原形だといわれます。軍事領域(ミリタリーゾーン)だったその砦は、裁きの門を潜り出た前方左手、アルハンブラ宮殿の最も西の部分に残されています。内部には、兵士たちの付属設備を周囲に従えたアルマス(武器)の広場やポルバラ(火薬)の塔、アダルべの庭園などがありました。
 
ぶどう酒の門
 ぶどう酒の門(Puerta del Vino) 向こうから入門して振り向いて撮った写真。右手にアルカサーバが見えます。
この門はアルハンブラ・アルタ地区への通用門であり、これは街の中心線であるレアル通りの起点であり、軍事領域と市井の空間の境界線にもなっています。ぶどう酒の門という名前は、1554年から門の内部にあった免税のぶどう酒市場がもとになって付いたという説が一般に受け入れられています。
 
ナスル朝宮殿(旧王宮)について
キリスト教徒による征服後、皇帝カルロス5世(在位1516〜1556年)が住居、行政、帝国統治の一大中心地としてイスラムの宮殿の隣に建築しようとした新王宮と区別するために、ナスル朝(1238〜1492年)の宮殿の建物は旧王宮と呼ばれました。旧王宮は昔も今も、アルハンブラでもっとも重要な中枢であり、『メスアール宮』『コマレス宮』『ライオン宮』とそれぞれの附随施設から構成されており、アルハンブラ全域のなかでもひときわ注目すべき場所です。専門家たちによると、7つの宮殿があったそうですが、私たちの世代まで届いたのは、王宮都市の一部分と市街地の廃墟だけです。(参考:ガイドブック『アルハンブラ散策』)。
 
メスアール宮
木組みの天井が印象的なメスアール(政庁)の間 
部屋の壁の装飾
メスアール宮(Mexuar)は、現存するアルハンブラ宮殿の中でもっとも古い建物で、王の政務や会議、裁判に利用されたそうですが、アルカサール(王宮)のなかで最も改造を強いられた部分でした。装飾はグラナダを征服したキリスト教徒たちによって改修されました。本来この部屋には、ナスル王朝の時代はステンドグラス越しに陽の光が射し込む明かり取りがあったらしいのですが、キリスト教徒によって現在の木の天井に変えられてしまいました。
後ウマイヤ朝の首都はコルドバにあり、グラナダの丘の上には軍事要塞アルカサーバだけが建てられていました。アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、グラナダを首都としたイベリア半島最後のイスラム王国であったナスル朝グラナダ王国(1238〜1492年)の時代に入ってからでした。前述の施設の大部分がこの時代につくられ、13世紀にはアルカサーバの拡張工事が行われ、その後も歳月と共に建物や塔が建築されていきましたが、大きな変貌を遂げたのは、ユースフ1世(在位1333〜1354年)とその息子のムハンマド5世(在位1354〜1391年)の時でした。
『神のみぞ勝利者なり』というの意味のマグレブ文字
  
コマレス宮
 アラヤネスの中庭と北側柱廊。背後に高さ50mのコマレスの塔がそびえています
アラヤネスの中庭の側壁窓と装飾
大使の間、あるいは王座の間とも呼ばれる広間を含むこの宮殿(コマレス宮)はアルハンブラ宮殿で最も重要な核をなすもので、アルハンブラの外交および政治の中心でした。アラヤネスの中庭は、大使たちの盛大なレセプションを開く場であり、要人たちがスルタン(イスラム世界における君主号)に謁見される時を待つ場所だったと考えれています。柱廊、バルカの間、コマレスの塔、浴場はユースフ1世(在位1333〜1354年)によって、それ以外はムハンマド5世(在位1354〜1391年)によって建築されたそうです。
1492年、キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)によってグラナダが陥落するとアルハンブラ宮殿にも一部手が加わり、カルロス5世(在位1516〜1556年)の時代に入ると、皇帝はこの宮殿を自らの帝国支配の中心地にする考えを持っていたといわれており、いくつかの改築が行われています。カルロス5世の噴水や、カルロス5世の宮殿の建設が始まり(宮殿は完成することはありませんでした)、モスクは教会へ変えられ、礼拝堂や修道院が建築されていきました。
 漆喰装飾(コマレスの間入口)
アラヤネスの中庭と南側柱廊。飛んでいるのは、”岩つばめ”。
バルカの間から見るアラヤネスの中庭
彼等にとってアルハンブラは、『アル・アンダレス』(イスラム支配の版図を彼等はこう呼びました)の象徴であり、イスラムの支配と信仰が砕かれてもなおスペインに残った輝かしい遺産なのです。
(以上、 Wikipediaより抜粋し、一部編集)
  
■ナスル朝グラナダ王国が成立したのは、イスラム支配の時代(716年〜1031年)はとうに過ぎ、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)の波涛が押し寄せる1238年のことでした。政治的には凋落期でありながら文化的な絶頂期に達していた文明の、きらめきと規模の大きさを偲ぶことができます。
アルハンブラ宮殿は現在スペイン屈指の世界遺産であり世界中から観光客が訪れる名所となっていますが、元はスペインに屈服させられたイスラム教徒の宮殿であるということは象徴的な意味を持っています。すなわち、現在のスペイン国家は公式には、キリスト教徒によるレコンキスタの過程で、それまでのイスラム的な文化を払拭(カトリック教会側から見れば浄化)して建てられたカトリック教国ですが、現実にはスペインをスペインたらしめる数多くの文化がイスラムにその多くを負っているということです。スペインを訪れるイスラム教徒たちは、このアルハンブラを他の誰にも増して特別な気持ちで見るといいます。
壁面の装飾『生命の樹』(北柱廊)
 コマレス宮から見たアルバイシン地区
 
ライオン宮
ライオンの中庭は写真のように工事中でした。向こうに見える2階建が二姉妹の間
 
ライオンの中庭(Patio de los Leones)は、アルハンブラ宮殿といえばイオンの中庭といわれるほど有名で、通常であれば噴水の回りに12頭のライオン像が放射線状に居並んでいるはずですが、残念ながら修復工事中のため、完全な姿のライオンの中庭は見れませんでした。12頭のライオン像は室内に展示してあってみれましたが写真撮影は禁止でした。そこで、在りし日のライオンの中庭の風景写真を、リンクの形でウィキペディアより借用して表示しました。
工事前のライオンの中庭(写真は、アルハンブラ宮殿−Wikipediaより) 
 
二姉妹の間の八角天井に施された鍾乳石飾り(モカラベ)の装飾は見事でファンタスチックです。
豪奢で非のうちどころのない美しさ、二連アーチの窓を有するリンダラハのバルコニー
バルコニー最上部にはめ込まれた色ガラス
二姉妹の間は、王が愛した姉妹の住んだところで、部屋の中央にマカエル産の大きな二枚の大理石が敷かれていることから、そう呼ばれるようになったそうです。鍾乳石飾り(モカラベ)の天井には驚かされます。リンダラハのバルコニーの北側は、リンダラハの庭園の上に突き出た美しい二連アーチの窓になっています。この庭園の向こう側に立つレコンキスタ後の回廊がなかった頃は、ここから城壁越しに市街地が一望できたそうです。リンダラハの中庭は、カルロス5世の新婚旅行を兼ねたアルハンブラ訪問に合わせて、1526年に行われた改築工事の結果造られた中庭だそうです。
ライオン宮(Leones)はスルタンのプライベートな住空間の中核であり、その中には女性たちのための部屋もありました。ただし、ハーレムと呼ぶことはできない。というのは、女性の寝室としての機能だけでなく、外交や国政にも関連したからです。1362年12月30日(モハメッド5世二度目の治世時代)には、現在のライオンの中庭には二姉妹の間しかなかったことがわかっており、その後、中庭を閉じる建造物が建てられていったそうです。ライオンの中庭(Patio de los Leones)、二姉妹の間、リンダラハバルコニー、リンダラハの中庭、諸王の間、アベンセラッヘスの間などがあります。(参考:ガイドブック『アルハンブラ散策』)
ライオンの中庭の列柱(ここも工事中でした)
カルロス5世時代に造られたというリンダラハの中庭
 
カルロス5世宮殿
カルロス5世宮殿の東側外壁。ドアノッカーのような飾りが・・・ 
ナスル朝宮殿(旧王宮)の南隣にある真四角のどっしりとした箱型の建物がカルロス5世宮殿。旧王宮などのイスラム建築に対して違和感を否めないこの宮殿は、16世紀初めに、アルハンブラを自らの帝国支配の中心地にする考えを持っていたといわれたカルロス5世によって建設が始められたものです。 
南側ファサードのモニュメント
宮殿は西側、南側ファザード(建築物の正面あるいは外観のこと)の前に柱廊つきの広場を造ることから設計されましたが実現には至りませんでした。宮殿自体もその当時に完成せず、建設主である王がそこを使うことはありませんでした。現在は、アルハンブラ博物館が置かれ、またコンサートの会場として利用されています。
カルロス5世宮殿の内部
円形の中庭を備えた、屋根開口部直径30m、全体直径42mの宮殿内部は、簡素でむき出しの感を否めません。中庭ではグラナダ国際音楽舞踏祭が開催されます。
 
サンタ・マリア・アルハンブラ教会  
サンタ・マリア・デ・ラ・アルハンブラ教会の鐘楼(写真左)と外壁(写真右)
昔モスクのあった場所にキリスト教徒によって建立された教会。カルロス5世宮殿からパルタルに向う右手に見えます。印象的な鐘楼は、楡(にれ)、ポプラ、糸杉の木々と高さを競っています。
 
パルタル 
昔存在した宮殿の名残であろうといわれる貴婦人の塔
青空にそびえる糸杉。後は二姉妹の間の建物
貴婦人の塔の南側にユースフ3世宮殿跡が広がります。 ユースフ3世宮殿は、1718年に立ち退き、そして取り壊されるまではアルハンブラの総督府であって、ユースフ3世(1408年〜1417年)によっていまだナスル朝華やかなりし頃に建造されました。中央に池のある中庭の両脇に建物が立つという構図が多用されていました。現在、西側には宮殿に附随した住宅住居の名残りが、東側には2つの水槽とともに浴場の跡が残されています。パルタルの庭園は、北側の城壁に沿って、現在のアルハンブラからヘネラリーフェへのアクセス地点まで散歩道となって延長されています。
ライオン宮からナスル朝宮殿の出口を出れば、その東に広がるのがパルタルの庭(Partal )で、貴婦人の塔のほか、住宅、宮殿、街路、消滅した貯水槽の名残を見ることができます。ここはかつては、優雅な邸宅や豪華な宮殿が建ち並ぶ緑地でした。池を従えた小さな平地に建つ貴婦人の塔の柱廊はアラビア語でパルタル(屋根つきの柱廊)とよばれ、庭一帯がそう呼ばれるようになりました。貴婦人の塔は、前面の池とともに、この地域で唯一保存されているムハンマド3世(1302年〜1309年)治世の建造物であり、それゆえ昔存在した宮殿の名残りであろうと考えられています。
パルタル庭園の貴婦人の塔
往時を偲ばせるユースフ3世宮殿の庭園跡。背後に見えるのは貴婦人の塔。
ユースフ3世宮殿の名残り(写真左)。数々の塔、ヘネラリーフェ、出口という案内板があります(写真右) 
 
塔の数々 
囚われ人の塔。右手に見える建物はヘネラリーフェ
 くちばしの塔
くちばしの塔(写真上)は、そのギザギザになった上辺から、または特に名前の由来になった、くちばしに似た尖った持送りによって他の塔とはたやすく見分けがつきます。あきらかいに防御用の性質を帯びた塔です。王女たちの塔(写真下)は、囚われ人の塔(15世紀半ば)よりも後の時代のものであり、塔の装飾には、ナスル朝のあきらかな衰退が認められ、漆喰細工やモザイクにもオリジナリティーやバラエティーが欠如しています。水の塔(写真右)は、防御機能以外に、集落全体に水を供給する用水路を守るという、極めて重要な役割を果たしていました。(参考:ガイドブック『アルハンブラ散策』)
かつては30を越える塔が配置されていましたが、現存するのは22です。外側の城壁は防御の目的から13世紀初頭、宮殿以前に建造されました。もっとも。専門家によれば、14世紀には軍事的な意味合いは薄れ、グラナダの市街地とアルハンブラという2つの世界の境界線となると同時に、住いとしての小宮殿となりました。ヘネラリーフェへの散歩道路沿いに、くちばしの塔、王女たちの塔、囚われの塔、水の塔と並んでいます。囚われの塔(写真上)は、1340年に建造されたもので、現在の名前は、18世紀につけられたもので、この塔にちなんだ伝説に由来するものだといわれています。
水の塔
王女たちの塔
 
 グラナダ市街地遠望
グラナダ市街遠望(アルハンブラ見学の帰りの観光バスの車窓から)
【参考サイト、書籍】
(1) アルハンブラ宮殿−Wikipedia
(2)
ガイドブック『アルハンブラ散策』
 ヘネラリーフェ
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