レポート | ・弥五郎どんと放生会(ほうじょうえ) |
− 弥五郎どんと放生会(ほうじょうえ) −
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去る11月3日、文化の日に鹿児島県大隅半島の曽於(そお)市大隅町の岩川八幡神社で、ギョロリまなこに太い眉、大小の太刀を腰に据えた身の丈が 4.85mもある大男の人形を台座に乗せて町内を引きまわす祭りが開催されました。『弥五郎どん祭り』という、約
900年の歴史を有す祭りです。まず、2006年の祭りの様子をご覧下さい。 ・写真旅行記『弥五郎どん祭り − 鹿児島県曽於市』 → http://washimo-web.jp/Trip/Yagorou/yagorou.htm さて、この祭りの大男『弥五郎どん』のモデルは誰かといえば、2つの説があるそうです。一つは、 300歳近くまで生きて、六代の天皇に仕えたと伝わる武内宿弥(たけうちすくね)だという説です。現に、武内宿弥は、応神天皇や神功皇后をはじめとする岩川八幡神社の祭神の一人にあげられています。 もう一つは、朝廷に抵抗した隼人族の首領だという説です。律令制度が整ってくると大和朝廷の権力は南九州にも及ぶようになりますが、首領を中心に強固な共同体を組織していた隼人にとって、中央から派遣された官僚に支配されることは、とても耐えられることではありませんでした。 養老四年( 720年)2月、大隅・日向の隼人らは初代の大隈国守・陽候史麻呂(やこのまろ)を殺害して反乱を起こしました。これに対して、朝廷は、同年3月に大伴旅人を征隼人持節大将軍とし派遣します。 まだ、同年9月 当時豊前守であった宇努首男人(うぬのおひと)が将軍に任ぜられて戦勝を祈って宇佐神宮に参拝し戦地へ赴きました、男人は隼人の軍勢を大いに破って、数多くの隼人を討ち取ってその首を宇佐に持ち帰りました。 宇佐八幡宮の末社の一つに『百体神社』という神社がありますが、これは持ち帰って埋めた隼人の百体の首の霊を慰める社だったそうです。大和朝廷は隼人の反乱を鎮定するため、大軍を南九州に送りました。1年間にわたって抵抗した隼人でしが、圧倒的な兵力に敗れていきました。 宇佐はそれまで稔り豊かな豊穣の地でしたが、この戦ののち不作が続き、疫病が流行るようになりました。戦いで亡くなった夥しい数の隼人族の祟りを恐れた宇佐神宮は天平16年( 744年)、隼人の怨霊をしずめるため『放生会』(ほうじょうえ)を執り行うよう全国の八幡宮系神社に号令を出しました。 放生会は、捕獲した魚や鳥獣を野に放し、殺生を戒める儀式であり、浜まで下り行っ海に魚を放つ行事が放生会の一つとして南九州に伝わる『浜下り』です。 弥五郎どんは、朝廷との戦いで首を切られた隼人の首領だったわけです。11月3日の岩川八幡神社の『弥五郎どん祭り』は、午前1時の『弥五郎どんが起きるぞ〜』といふれ太鼓で始まります。 午前2時に、弥五郎どんの組立てを行い、午前4時に弥五郎どん起しが始まります。弥五郎どんが胴体に首をつけられ生き返るわけです。弥五郎どんを台車に載せ、皆で引っ張って起こします。これに参加すれば身体が強壮になり、運気が益々めでたくなるといわれているそうです。 そのようにして完成した弥五郎どんは、午後1時に岩川八幡神社を出発して、町内の約4kmのコースを約3時間かけて練り歩るきます。かつての隼人の首領に現在の大隅の様子を見てもらうと同時に、この神興行列は『浜下り』そのものなのです。隼人の乱から1,300年、人々の隼人に対する畏敬の念は今も脈々と引き継がれているのです。
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2017.11.14 | ||||
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