レポート  ・和井内貞行   
− 和井内貞行 −
今年(2013年)4月下旬の東北旅行が初めての十和田湖訪問でした。そして、そのとき初めて和井内貞行という人の名を知ったのです。青森県十和田市と秋田県鹿角郡小坂町にまたがる十和田湖は、明治17年(1884年)までは、魚が一尾も棲まない、誰も観光に訪れない湖でした。
 
そんな十和田湖が、ヒメマス(姫鱒)の移植用卵および稚魚の供給源として重要な位置を占めるようになると共に、東北旅行の重要な観光スポットになったのは、ひとえに、和井内貞行という人とその一家の苦節22年の苦労と努力の賜物に他ならないという話しを、恥ずかしながら著者はそれまで知らなかったのでした。
 
伝記集『近代日本の文化恩人と偉業』(明治圖書、1941年)のなかの『十和田湖開發の大恩人 和井内貞行翁』編を参考に、和井内貞行の感動の物語をレポートします。
 
 和井内貞行(わいない さだゆき、1858〜1922年)
 
安政5年、陸奥国鹿角郡毛馬内村(現・秋田県鹿角市)に生まれる。明治7年毛馬内小学校の創立と同時にその職員となり、数年教鞭を執った後、明治14年に工部省小坂鉱山寮の吏員に転じ、十和田支山詰を命ぜられる。同17年(1884年)になって、政府が鉱業権を合名会社藤田組(後の同和鉱業)に譲り渡したため藤田組の社員となる。
 
(1)魚の棲まない湖
 
十和田湖の水は東岸にある子ノ口(ねのくち)から流れ出して奥入瀬(おいらせ)川となり、太平洋に流れ出ていますが、子ノ口から約 1.5km下流に高さ9m余りの銚子滝があるため、明治33年(1900年)に魚道が開削されるまでは、川魚がさかのぼって湖中に入ることができませんでした。
 
その上、昔から湖畔の住民の間に、魚という言葉を口にしただけで神罰が下るという迷信があったため、魚を湖中に放流する者は一人もいませんでした。したがって、明治17年以前には魚一尾も棲んでいませんでした。
 
十和田湖畔の住民も鉱山関係者2000人も、ほとんど魚肉を食うことが出来ない状況のなかで、貞行は、鮮魚を湖畔の人々にあてがってやりたいと思い、朝夕目前に見る十和田湖の利用を考えられずにはおられませんでした。そこで、養魚経営の案を立て、知人や同僚に相談してみますが、何人も一笑に付して顧み者はなく、ことに湖畔住民は伝統的迷信を重んじて極力これに反対しました。
 
(2)養魚事業に着手
 
ここに至って、貞行は、独力で事に当たるしかないと決心し、自分の俸給の幾分かを割き、鹿角(かづの)郡大湯村で求めた鯉 600尾を湖水に放流しました。時は、明治17年(1884年)の秋、貞行27歳のときでした。ここに、貞行の養魚事業が始まったのでした。十和田湖としては実に空前の出来事でした。
 
その後、藤田組の社員として鉱山事務にいそしみながら、一方では、鯉、鮒、岩魚、金魚などを放流していきました。そして、放流開始から5年後の明治22年の秋、波間に躍る大きな鯉をみたのでした。これを見た湖畔の住民は、貞行に浴びせた嘲笑も、神罰の迷信も忘れてしまったかのように、我も我もと先を争って魚を捕り、鮮魚の美味に舌鼓をうつのでした。
 
しかし、貞行は湖水の使用権を得ていなかったので、住民による魚の密漁をやむを得ないことだと覚悟して、根気強く魚類を放流し続けました。明治26年(1893年)、青森県、秋田県の両県から十和田湖の使用権を得て、養魚事業の基礎がようやく確立しました。
 
(3)養鯉の失敗
 
明治28年から湖畔に請願巡査を置き、さらに湖畔の数か所に常備の看守人を配置して密漁を防ぎつつ魚苗の放流を継続しました。養魚成績は良好に向かい、明治30年6月には、網を投じて本式に漁獲をはじめました。鯉の大物が続々あがり、毛間内(かまない)、小坂、花輪の町々を始め、各地の魚市場に売り出しました。
 
和田湖の鯉は池飼いのものと違って肥大していて脂肪に富み、泥臭くないというので、どこでも大評判でした。貞行は、養魚事業の経営と十和田の勝景宣伝に専念するため、藤田組を退職しました。時に、貞行40歳。
 
しかし、鯉は発育も繁殖も良かったものの、鯉の養魚は収支の合わない事業であることが判明するのです。明治32年(1899年)、貞行は新たに巨資を投じて網を買い入れ、漁船を用意して大規模の捕獲を試みましたが、思いのほか薄漁でした。
 
鯉は、産卵期以外はたいてい水中深くを泳いでいて、そのうえ敏捷なため、網を投じても逃足が早くて容易に網にかかりません。したがって、この漁期は5、6月頃産卵のため湖岸付近の比較的浅いところに集まる時に限られ、わずか2、3ヶ月に過ぎませんでした。これが収支の合わない主要原因の一つでした。
 
また、鯉は生きていてこそ需要が多いですが、死魚はほとんど顧みられません。交通不便な十和田湖から山道を経て、生魚のままで市場に送るには多大な運送費がかかります。その上、どんなに細心の注意を払っても、途中で死ぬものもかなり多く、これもまた収支の合わない原因の一つでした。
 
すなわち、鯉は立派に繁殖しますが、収支が合わないため、多大な損失をこうむり、ついに和井内家の資財は年とともに減じ、負債が多くなる一方でした。すると鯉を密漁した湖畔住民は、『神罰だ』として、再び貞行を嘲笑し始めました。 
 
(4)河鱒と日光鱒の失敗
 
創業以来10数年間苦心した養鯉事業が失敗だったと悟ると、貞行は新たに鱒(マス)の養殖を試みることにしました。鱒は、鯉よりも漁期が長く、また生魚として市場に出す必要がない、しかも十和田湖の水温、水質は鱒に最適だというのが、水産専門家の一致した意見でした。
 
そこで、貞行は、明治33年(1900年)、河鱒(カワマス)5000尾を求めて湖水に放流しました。人工孵化場も完成させ、同年、日光市の中禅寺湖の養魚場から日光鱒の卵十万粒を移入し、人工によって孵化させました。その成績はすこぶる良好で、翌34年の春、長さ 4.5pほどの稚魚になるのを待って湖水に放流しました。
 
しかし、河鱒も日光鱒もよく成育しましたが、河鱒は滝や魚道を下って奥入瀬川に逃亡するものが多く、残ったものも共喰いをするために減少し、いっぽう日光鱒は散住性があるため漁獲が容易ではなく、両者ともに不成功に終わりました。
 
この頃、和井内家では、山林も田畑もすでに人手に渡っていた上、膨大な負債がありました。湖畔では、『鯉に失敗し、鱒に失敗してなおも養魚を断念しない。このつぎは何に失敗するつもりか』という者ばかりで、知人、朋友だれ一人彼の成功を信じる者はいませんでした。親類縁者も貞行を相手にせず、父治郎右衛門に向かって、貞行を思いとどまらせるようしきりに勧めるのでした。
 
(5)姫鱒(ヒメマス)との出合い
 
父は初め養魚に反対でしたが、いつしか貞行の熱意に動かされて態度一変し、資産を失っても、負債が山と積もっても、一向に貞行を責めないばかりか、激励するようになっていました。当の貞行本人は、二回の失敗を天の与える試練と心得、七転び八起きを覚悟して養魚を断念せず、また十和田の勝景宣伝も中止しませんでした。
 
東奔西走しては、養魚について活路を求めることに努めていたとき、たまたま長野県の寒天製造会社の中島庸三という社員と出会い、つぎのような話しを聞きます。
 
〜カバチェッポが良いのではないかと思われる。カバチェッポは一名を姫鱒(ヒメマス)といい、原産地は北海道釧路の阿寒湖であるが、今支笏湖で養殖している。普通の鱒より小形ではあるが、繁殖が容易であり、ほとんど共喰いの心配はなく、三年目ないし四年目には必ず放流地に回帰して産卵する特性があるから、漁獲も困難ではな
い。〜
 
ヒメマスとの出合いでした。貞行は闇夜に燈火を得た心地で家に帰って金策に取りかかりましたが、もう誰も相手になってくれる者はいないでした。そこで、唯一の懐中時計を売り、残り少ない衣類を質に入れて、ようやく20円の資金を調達しました。
 
そして、青森県の紹介で支笏湖からカバチェッポの卵を移入し、人工孵化に着手しました。幸いに成育は順調で、明治36年(1903年)5万尾の魚苗を十和田湖に放流しました。しかし、その成績の良否は少なくとも3年後でなければわかりません。
 
(6)大願ようやく成就
 
当時、和井内家は三度の食事を二度にへらすほどの窮乏状態に陥っていて、『自ら求めた神罰』と嘲笑する者はあっても、彼を助けようとする者はありませんでした。さすがの貞行も、失敗続きの過去をかえりみ、成否のわからない将来を思って沈思黙考は数日に及び、家族にこの上の苦労を強いるのは家長として忍び難いとの思いから、夫人と長男に、『自分は大湊要湾工事の人夫となって働きに出て、貯金して帰ってくる』と、養魚事業の断念と新しい生活への方向転換をいうのでした。
 
すると夫人は、襟を正して、『お気持ちはよくわかります。しかし、事業の成否は将来のこと、まだ全然失敗と見るのは早すぎましょう。ここでくじければ、長い間の苦労・努力も、最後のわずかな失敗で不成功に終わるでしょう。今日までの一家の苦労を活かすためには、今後の苦労を厭うてはなりますまい。あなたはやはり、養魚と勝景の宣伝にお当たり下さい。及ばずながら私はここを死場所として、あくまで働き通し、あなたや子供に不自由は致させないよう努めます』と極力反対しました。
 
貞行は、家族の熱誠に動かされ、事業を続けることになりましたが、貧困は元の通りで、夫人は極度の緊縮生活を実行しました。そうして赤貧洗うが如き苦境の三年は決して短くはなかったことでしょうが、至誠が天に通じたものと見え、ついに成功の日がきたのでした。
 
明治38年(1905年)9月のこと、貞行が孵化所の物見はしごに上って湖上を見渡していると、奥入瀬川の漁道をさかのぼって来たと思われるヒメマスの大群が湖水の色も変わらんばかりに、銀鱗をひらめかせながら頭尾相接して泳ぎ帰ってきたのでした。
 
網を下ろしてみると、日に千尾以上の漁獲がありました。しかも原産地のものよりも発育がよく、一尾 375g以上に達するものも多かったのです。ここに至るまで、奮闘実に22年、貞行48歳にしてついに成功をみたのでした。(文中、敬称略)
 
【備考】
・伝記集『近代日本の文化恩人と偉業』(明治圖書、1941年)は、国立国会図書館のデジタル化資料で閲覧できます。
 → http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042934?tocOpened=1

 

2013.05.28 
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