レポート   ・ヴェネツィアについて   
− ヴェネツィアについて −
 
運河にゴンドラが浮かぶ風景で知られるイタリアのヴェネツィアは、イタリア(正式にはイタリア共和国)の北東部に位置する都市で、ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都です。
 
その市街地は、大陸から川の流れに乗ってくる土砂がアドリア海からの波と風の力を受けて作られた干潟(ラグーナ)に形成された長さ約 3.5km、幅約2kmの小さな島です。
 
4〜5世紀のゲルマン民族の大移動で西ローマ帝国を追われた避難民は、この湿地帯へ逃げ込み、大量の丸太の杭を打ち込んで土台にして建物を建てました。地中に丸太が大量に打ち込まれていることから、ヴェネツィアを逆さまにすると森ができるといわれるほどです。
 
島内の道は、自動車が入れないばかりか、自転車の離合もままならないほど狭いため自転車の乗入れすら禁止されています。その代り、150を超える運河を開き、400におよぶ橋を架けて水運を発達させました。地図は、その全体像を知る手助けになります。
 
2014年7月に出かけた10日間のイタリアツアー旅行で、一泊二日を過したヴェネツィアはやはり感動的でした。ヴェネツィアの概要について調べてみました。
 
100以上の島々
 
ヴェネツィアは、約6万人が住み市街を形成しているヴェネツィア本島(5.17km2)と 100以上の島、そして本土側のメストレなどからなり、行政単位の市としての人口は約26万人で、面積は412.54km2に及びます。日本語では、ベネチアとも表記され、また英語では 『Venice』と綴られることから、ヴェニス、ベニスとも呼ばれます。
 
本島以外の主な島として、本島のすぐ南にあるサン・ジョルジョ・マッジョーレ島やジュデッカ島、さらに南に下って映画『ベニスに死す』で有名なリード島、また、本島のすぐ北に、墓地となっているサン・ミケーレ島、さらに北に、ヴェネツィアン・グラスで有名なムラーノ島、レース編み産業のブラーノ島、そして、もっとも古い時代に栄えたトルチェッロ島などがあります。
   
図1 イタリアとヴェネツィアの位置
 
 図2 ヴェネツィアの領域
ヴェネツィアの歴史
ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂がアドリア海からの波と風の力を受けて作られた湿地帯です。古代、この周辺の地域にはウェネティ人が住んでいましたが、4〜5世紀のゲルマン民族移動で追われた西ローマ帝国の難民がこの湿地帯へと避難してきたことから、 452年 にヴェネツィアの歴史が始まりました。
 
この時避難してきた先が現在のトルッチェロ島でした。足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることが出来ず、避難した人々はここに暮らし続けるようになりました。
  
アドリア海沿岸地域は元々東ローマ帝国の支配下にあったため、名目上は東ローマ帝国に属しましたが、実質的には自治権を持っていました。 697年、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めました。これがヴェネツィア共和国の始まりです。
 
9世紀初め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣、そのため、トルチェッロにいた人々は更なる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになりました。
 
810 年に、東ローマ帝国とフランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属しますが、フランク王国との交易権も持つこととなり、これが貿易都市への布石となりました。
 
このころ、ヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にありました。
 
ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者・聖マルコの遺骸がエジプトのアレクサンドリアにあり、ムスリム(イスラム教徒のこと)に奪われる恐れがあることを聞きつけ、 828年、それを奪い取りヴェネツィアに運びました。
 
この時よりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになります。聖マルコの遺骸を安置する場所として礼拝堂を建てたのが、サン・マルコ大聖堂の起源です。 976年に焼失して再建、更にヴェネツィ共和国の威信を示すため1063年から 400年がかりで今の大聖堂に建て替えられました。数少ないギリシャ正教の聖堂としてモザイク模様が荘厳です。
 
10世紀後半からは、イスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大していき、さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めて行きました。11世紀、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を取得します。
 
1104年に、軍直属の軍需工場が創られ、軍船の修理を始めました。1320年には軍船や大型商船の造船所となり、最大1万6千人が従事し、船のロープ・帆桁などを個別に生産し、一貫作業で1日1隻の造船能力があったといわれます。1370年代以降は銃器も生産され、16世紀には世界における造船・兵器製造の一大拠点となりました。
 
1204年、第4回十字軍とともに、ヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て、東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下におかれた。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力を誇るようになりました
 
13〜14世紀には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いが続きましたが、1378〜81年の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認めます。その後も侵略戦争で周辺地域に領土を獲得し、ヴェネツィアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力をもつ都市国家となりました。
 
しかし、15世紀半ばになるとオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げました。1538年におけるプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となって行きました。
 
また、1497〜98年にポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわるインド航路を発見すると、貿易の対象がアジアに移り、さらにアメリカ大陸が発見され、時は大航海時代へ移るとともに貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移って行きました。
 
ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下し、衰退は加速されました。これに対して、ヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処しました。1508年、ヴェネツィアに対抗して、神聖ローマ帝国、教皇、フランス、スペインは同盟をむすび、ヴェネツィア領土内にある財産を没収しました。
 
1516年、ヴェネツィアは巧妙な外交でイタリアでの支配権を取戻しましたが、海洋国家としての地位は回復できませんでした。1797年、ヴェネツィア共和国はナポレオンに侵略され、ついに崩壊しました。
 
            
 市街地の特徴
   
都市としてのヴェネツィアは、アドリア海の最深部、ヴェネツィア湾にできた潟ラグーナ(Laguna di Venezia または Laguna Veneta)の上に築かれた、運河が縦横に走る水の都です。
   
ヴェネツィア本島は大きな魚のような形をしており、その真ん中を全長約3kmにおよぶS字形のカナル・グランデ(Canal Grande、大運河)が北西から南東へ、市街を2つに分けながら湾曲して流れています。
 
この大運河からさらに 150をこえる運河が入り込んでおり運河には 400におよぶ橋がかかっているといわれます。また、ヴェネツィア本島と南端のジュデッカ島の間には幅約400mのジュデッカ運河が東西に流れています。
 
ヴェネツィア本島の地上では、迷路のように狭くて曲がりくねった路地や通りに自動車は入れず、橋も歩行者専用です。従って、何世紀もの間市内の輸送をになったのは、ゴンドラ ( gondola) と呼ばれる手漕ぎボートでした。今は、水上バスやフェリーが市民や貨物を運んでいて、ゴンドラは観光に利用されている。
 
干潟に建物を建てるため、大量の丸太の杭を打ち込みそれを建物の土台としました。そのため、"ヴェネツィアを逆さまにすると森ができる"(地中に丸太が乱立するがごとく大量に打ち込まれたため)といわれています。
 
ヴェネツィア本島は、かつては海上に浮かぶ孤島であったが、オーストリア帝国治世下の1846年にイタリア本土との間に鉄道が敷かれ、後に自動車用道路のリベルタ橋も架けられ、イタリア本土との往来が容易になりました。
 
ただし、ヴェネツィア本島内での自動車での移動は不可能であり、自転車の使用も禁止されています(乳母車、車椅子は可)ため、車はリベルタ橋を渡ってすぐの所にあるローマ広場の駐車場に置いて、島内を徒歩か船舶で移動することになります。
 
車が入れず、一方で運河が発達していることもあり、主な交通機関は必然的に船になります。水上タクシー、水上バス、渡し船などが運河を用いて頻繁に運行されています。

 
 図2 ヴェネツィア本島(市街地)の運河
赤線は、水上バス乗り場Bから宿泊したホテルDの経路 
           
 ヴェネツィアの現状と課題

現代のヴェネツィアは、他地域への人口流出、水害や地盤沈下、大気や水の汚染、建造物の老朽化など多くの問題に直面しています。1966年の大水害の後には、歴史的な町を守るための国際的な運動がユネスコの主唱で組織されました。
 
大潮、低気圧、そしてアドリア海の東南から吹く風『シロッコ 』の3つの要因が重なると、『アックア・アルタ』と呼ばれる高潮がヴェネツィア湾で起きます。
 
このとき、ヴェネツィアの街中まで水が入り込み、特に一番低いサン・マルコ広場は水没します(広場や道路には臨時の高床が組まれ、通行を確保しています)。過去に北の対岸の本土マルゲーラ地区で工業用の地下水のくみ上げが行われたことにより地盤沈下が起こり、アックア・アルタによる浸水の水位が1m以上になったこともあります。
 
建造物の沈下は、地下の帯水層の流出が原因とされるため、地下水使用の制限やアルプスからの水道の導入などで対処しています。更に今後の地球温暖化によって海面上昇が加速されることとなれば、将来ヴェネツィアの街全体がアドリア海に水没してしまうことが懸念されています。
 
水没を防ぐために、アドリア海との間の3カ所に可動式の防潮堤を設ける『モーゼ計画 』が提案され、工事も着手されていますが、環境やヴェネツィアの潟に与える影響が懸念されるため、市長や多くのヴェネツィア市民の反対もあります。
   

2014.08.06
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