レポート  ・冬至とクリスマス   
− 冬至とクリスマス −

地球は、一年かけて太陽の周りを回っています。いわゆる地球の公転です。地球の北極と南極を結ぶ地軸が、公転面に対して23.4°傾いているために、地球上のある地点が、一年のうちにより太陽に近づく時期とより遠ざかる時期が生じます。


きょう12月22日は、北半球では太陽が最も遠ざかり、かつ昼の長さが最も短い冬至の日に当たります。そして、3日後はクリスマスです。クリスマスの12月25日といえば、一般にキリストが誕生した日だと思われていますが、冬至とクリスマスに密接な関係のあることをご存知でしょうか。


一陽来復


冬至は、一陽来復(いちようらいふく)とも言われ、陰が極まって再び陽が帰ってくる日で、この日を境にして運が向いてくると考えられました。早稲田の穴八幡神社や放生寺では、毎年一陽来復を祝う冬至祭が行われるそうです。前漢(紀元前206年〜紀元前8年)までの古代中国では、冬至の月を一年の始まりとし、古代のローマでは、太陽の高度が最も低くなる冬至を太陽が復活する日として、盛大な冬至祭を行いました。古代の人々は、冬至の日を太陽が新しく生まれ変わり、再び新しい年が始まる日と考えたのです。とても、合理的な発想です。


クリスマス


古代ローマでは、紀元1〜4世紀にキリスト教が台頭してくるまで、ミトラ教の信仰が盛んでした。人々は、主神である太陽の神ミトラが冬至に死んで、その3日後の25日に復活すると考え、ローマの町あげて盛大な祭りを行いました。 また、古代ローマ帝国の農耕の神サターンを祝うサトゥルナーリア祭や、ヨーロッパ大陸の先住民であったケルト人やゲルマン人たちの冬至祭も、25日を祭典の日と決めていました。キリストの誕生日は、聖書にも記されておらず、1月説や、3月、4月説など諸説入り乱れていて、はっきりしないようです。まだマイナーな宗教のひとつに過ぎなかったキリスト教を流布する過程で、太陽の復活する日をイエスキリストの降誕の日と結びつけたとして、キリスト教の初代の指導者たちに、何のためらいがあったでしょうか。ミトラ教の祭日が、そのままキリスト生誕の日として受け継がれ、325年のニケア公会議で正式に12月25日がクリスマスと決められました。これがクリスマスの起源です。


ゆず湯


冬至の日から9日が過ぎると一月一日で新しい年が明けます。元々は、冬至の日が年の初めだったのが、暦と太陽の運行との間の誤差からずれが生じて、現在の一月一日が年の初めとされるようになったようです。ですから、冬至もクリスマスも一月一日も、そもそもの起源は同じなわけです。江戸時代、上方の銭湯に対して江戸では湯屋と呼んでいたようです。湯屋には、薬湯を立てる特別な営業日がありました。端午の菖蒲湯、夏の土用の桃湯、冬至のゆず湯です。病を治す湯治(とうじ)に引っ掛けたり、さらに融通(ゆうずう)が利きますようにという願いを込めたりして、今でも冬至にはゆず湯を焚きます。


      柚子湯焚き老母(はは)は香りの貰い風呂
      夫婦玉二つ浮かべて柚子湯かな        ワシモ


大型タンカーが、舵(かじ)をいっぱい切っても、慣性があってすぐにはUターンできないように、太陽が帰り始めたからと言ってすぐに暖かくなるわけではありません。「冬至冬なか冬はじめ」と言われるように、冬至は実際には寒さがいっそう厳しくなる頃です。ゆず湯に浸かって冷えた身体を温め、皮膚に潤いを与え、カボチャなどの滋養のあるものを食べて本格的な冬を乗り切る英気を養おうということでしょう。そして同時に、復活して帰ってきた太陽が、恵み多き陽光を注いでくれる一年であるよう祈念したいものです。風呂にどんぶらこと浮かぶ黄色い柚子の玉は、太陽のようにも見えます。


2004.12.22  
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