レポート  ・故入来院貞子さんと薪能   
− 故入来院貞子さんと薪能 −
鹿児島県薩摩川内市入来町の地域おこしグループ『入来花水木会』代表として、7回にわたって入来薪能(いりきたきぎのう)を主催され、ホームページに旅行記やレポートなどをアップしたりしている著者の活動の最も良き理解者だった入来院貞子(いりきいんていこ)さんが、つまづいて転倒されるという不慮の事故による脳挫傷で2011年5月2日、死去されました。78歳でした。
 
著者の自宅より車で20分足らずのところにある入来麓は、町並みが中世の名残をよく残していて、国の重要伝統的建造物群保存地区(武家町)に選定され、入来院氏が本拠とした中世の山城・清色城(きよしきじょう)跡も国の史跡に指定されています。
 
入来院氏は、鎌倉時代、関東の豪族として、現在の東京・渋谷に城を持ち、相模の国(現在の神奈川県)に勢力をもっていた渋谷氏が、鎌倉幕府から薩摩国の入来院などの諸郷を与えられて下向し、後に入来院と名乗るようになったのが始まりです。戦国時代を乗り切って薩摩藩を確立した島津義久、関ヶ原敵中突破で有名な義弘兄弟の母は、入来院の出でした。
 
夫で庶流入来院当主の入来院重朝(しげとも)さんが定年退職されたのを機会に、1994年(平成6年)重朝さんとともに東京から入来に移り住んだ貞子さんは、先祖の渋谷氏が関東から下向して 750年になるのを機に、町おこしに何かしたいと考えていました。そんな折、県会議員をしている人から『鹿児島には能楽堂がない』と聞いたのを思い出し、脳裏に、ふと『薪能』という語が浮かびました。
 
というのは、入来院夫妻は、能楽観世流シテ方の若松健史先生(重要無形文化財総合指定保持者で2010年9月に死去)に謡曲の指導をしてもらっていて、観世流の人たちを知っていたのです。頼めば来てもらえるのでは、と思って『入来薪能』の企画を思い立ちました。
 
資金援助してもらえないものか、地元行政(当時は薩摩郡入来町)に相談に行くと、町長は『議会の承認が得られないから出来ない』といい、議員に聞けば『文化事業には誰も反対したことはない』という水掛け論。結局、地元行政の支援も理解もないまま、私的な負担も限界ぎりぎりのなかで、能に全く素人の地域おこしグループとその支援会の人たちの手づくりで平成11年(1999年)に第1回の入来薪能を開催することになりました。
 
何よりも心強かったのは、町の次代を担う若い実力者たちが支援会を作って、手足になってくれるということでした。彼らはイベントの実行にも手慣れていて、何よりも問題な駐車場や会場の設営など、具体的な手順はすっかりお任せできるということでした。
 
しかし、『能』は鹿児島の人たちにはほとんど馴染みのない世界のもので、地域おこしグループのメンバーも支援会のメンバーも全員がまだ一度も能を見たことがありませんでした。恩師で入来薪能の企画を引き受けて下さった若松健史先生が岡山の最上稲荷で薪能を開催するのを知っていた貞子さんは、実際を見なくてはと思い、岡山に見学に出かけます。
 
費用節減のため、県議の奥さんに借りたワゴン車に乗り、平成11年8月17日朝7時、支援会の会長、音響照明担当、会場設営担当、舞台を作る大工さん夫婦とともに入来を出発、交代で運転しながら9時間かかって最上稲荷に着くと、大工さんはメジャーで舞台の高さを計ったり、音響係はマイクの所在を確かめたり、実地見学と調査をしました。
 
このようにして、平成11年8月25日、東京から観世銕仙会(てっせんかい)一行の皆さんにおいで頂き、第1回入来薪能(演目『天鼓』、前シテ・後シテ、若松健史)が開催されました。第1回が成功裏に終ったのを皮切りに、昨年(2010年)までに7回の入来薪能が開催されました。
 
5年ぶりに第7回の入来薪能が開催されたのは、昨年8月28日のことでした。演目は、木曽義仲(源義仲)とその愛人・巴(ともえ)の悲劇を題材にした『巴』でした。前場で、『ここ粟津が原に木曾義仲の御霊がおられる。そこにおいでの僧にどうか供養を願いたい』と、里女(前シテ)が涙ながらに訴えます。
 
その前シテを舞われた若松健史先生が、残念なことに、3週間後の9月20日に出血性心不全のため75歳で急逝されたのでした。若松健史先生のシテの装束姿の舞台は、入来薪能の『巴』が最後だったそうです。貞子さんのお悲しみは如何ばかりだったこと
でしょうか。
 
同年12月、貞子さんは、若松健史先生の最後の装束姿となった前シテの写真を十数枚A4サイズに印刷され、額にいれて、地域おこしグループとその支援会のメンバーにプレゼントされました。長年の労をねぎらってのことでした。また、一枚を若松健史先生の奥様に贈られました。今になってみれば、図らずも貞子さんの形見となってしまいました。
 
地元川内(せんだい)が舞台となっている能に『鳥追舟』(とりおいぶね)があります。室町時代の謡曲師、金剛弥五郎の作といわれ、鹿児島県が舞台になっている唯一の能ですが、第4回入来薪能(2002年)でこの『鳥追舟』が舞われました。貞子さんのエッセイにつぎのようにあります。
 
『(鳥追舟は)今までの曲よりワキツレと子方の二名が増えるばかりでなく、ワキも上級な人でなければならないということで、京都の先生をお願いする。ハタラキというお手伝いも一人増えて費用は相当かかるのだが、後々にも川内市 (現薩摩川内市)の記録に残ることを考えれば、ここは頑張るしか仕方ない。』
 
入来院夫妻の愛猫ピッピちゃんのことをメルマガに書かせてもらうことになり、ピッピちゃんの写真を撮りにご自宅にお伺いたのは、4月11日のことでした(記事は、4月27日のメルマガで配信)。そのとき、嬉々としてピッピちゃんを追っかけていらした光景がいまだに目に焼きついでいます。
 
書き上げた原稿を貞子さんにお目通しして頂き、返事として4月24日、下記のメールを頂きました。
 
   件名 では5時半にお待ちします。
 
   立派なピッピちゃんを有難うございます。
   もし最後に加えられれば、
   『お返事するピッピちゃんは、毎朝二人が仏壇に般若心経を
   上げるときちゃんと並んで座っているそうです』
   というのは如何ですか。
 
   では5時半にお待ちします。
                      入来院貞子
 
翌25日の夕方5時半に、お借りしていた本を返しにご自宅を訪問し、お土産に貞子さん手づくりの筍のおこわを頂いて帰りました。これがお会いした最後になりました。5月5日、葬儀・告別式が2時間にわたってしめやかに執り行われ、8人の方が弔辞を述べられました。
 
全国にトップレベルの方をたくさんお知り合いに持たれ、またご自分もトップレベルの才能をお持ちの方でしたが、そうしたことを微塵も感じさせない方でした。それがまた貞子さんの存在の大きさだったように思います。ご自宅を訪ね、おとないを入れれば、今でも『どうぞ〜』と優しい声で迎えて頂けそうな気がしています。改めて、入来院貞子さんのご冥福をお祈り申し上げます。
 
第7回入来薪能で主催者代表の挨拶をされる入来院貞子さんの音声が聴けます。
・主催者代表挨拶をされる入来院貞子さん
  → http://washimo-web.jp/Information/7thTakiginou.htm
 
第6回と7回の入来薪能の様子が見れます。
・第6回入来薪能
  → http://washimo-web.jp/Trip/Takiginou/takiginou.htm
・第7回入来薪能
 → http://washimo-web.jp/Trip/IrikiTakigi2010/irikitakigi2010.htm
 
故入来院貞子さんのプロフィール
出 身
長野県諏訪市。県立諏訪二葉高校卒。旧姓 山崎
略歴
1953年:早稲田大学第一文学部史学科国史専修に入学
1954年:早稲田大学在学中の入来院重朝氏と結婚。1957年 同大学卒業
1970年:日本電算機総合学院を終了して富士電機KK東京工場事務管理室に嘱託として勤務
1988年:全労済システムズに入社、1993年 定年退職
1994年:夫の故郷、薩摩川内市入来町に移住。夫と猫2匹と同町に在住。
入来花水木会代表・朝河貫一研究会理事・鹿児島市日中友好協会理事・文芸誌「火の鳥」「ゆうすげ」歌誌「にしき江」同人
 
【参考】
銕仙会(てっせんかい)=江戸中期の十五世観世左近元章のときに分家し、現在に至るまで能界に重きをなしている観世銕之丞家を中心とした演能団体。→ http://www.tessen.org/
故若松健史氏(わかまつ・たけし)=能楽観世流シテ方、本名宏充=ひろみつ)2010年9月20日午前2時56分、出血性心不全のため東京都多摩市の病院で死去、75歳。兵庫県出身。6世銕之丞(華雪)、7世銕之丞(雅雪)、観世寿夫師、8世銕之丞(静雪)、9世銕之丞と5代に渡って銕之丞家に仕える。
 


2011.07.27  
あなたは累計
人目の訪問者です。
 − Copyright(C) WaShimo AllRightsReserved.−