レポート  ・霧ヶ峰昭和寺と入来薪能   
− 霧ヶ峰昭和寺と入来薪能 −

著者の自宅から車で10数分のところに薩摩川内市入来町麓地区があります。この地区は、中世の名残を残す玉石垣の町並みがよく保存されていて、2003年に国の伝統的建造物群保存地区(武家町)に選定されたところです。また、入来院家に伝来した入来文書(いりきもんじょ)は、日本封建制研究者必携の史料集として世界的に知られています。


その入来の町おこしグループ『入来花水木会』代表である入来院貞子さんから、HPの旅行記『入来薪能』を見ましたというお便りと『霧ヶ峰昭和寺』の案内のメールを頂きました。

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1941年(昭和16年)9月、長野、富山、石川県下から招集された独立混成第二連隊は、最初は揚子江一帯に配属されましたが、1943年(昭和18年)9月に廬州博兵団として津浦朧海海岸の防備に当たっている時に終戦を迎えました。


この師団の砲兵第一甲隊66名が、隊長だった故山崎良順師を中心に1960年(昭和35年)3月、諏訪市で戦友会として中観会を結成します。


師は、戦前は梵文学者として、南伝大蔵経などサンスクリットやパリー語の仏典の翻訳にたずさわっていましたが、出征で学問は途切れてしまい、戦地では2回も負傷したにもかかわらず、終戦まで帰国出来なかったそうです。そして、仏教学者でありながら多くの中国人を死に至らしめたことに心を痛めます。


そこで、日中両国の戦没者を祀るとともに世界平和を祈願して、二体の観音像を作ることになりました。師は、貫通銃創により痛む脚で広く浄財を募って回りました。


1961年(昭和36年)4月、浅草寺で開眼供養、1963年(昭和38年)9月に中国仏教会に寄贈され、北京広済寺に安置。また、分身観音40体が内外の激戦地に祀られました。そして、1970年(昭和45年)の大阪万博で古河パビリオン前に、3mの金色観音像が建てられたのです。


万博終了後、ラオス国王より同国のパビリオンだったラオス館が寄贈され、風光明媚な諏訪市霧ヶ峰に移築されました。そして、その中に3mの金色観音像が安置され、世界平和を祈願する無宗派の寺院、すなわち昭和寺とされたのです。


寺院の名前は正確には『国際霊廟中観山 同願院昭和寺』といい、建物はアジアの雰囲気漂うラオス館を本堂として、伊勢・諏訪・御射山の神を祀る三社神殿、そして、青少年研修会館があり、境内には4つの戦没者遥拝塔(東西南北に各1基ずつ)が建てられています。


昭和寺は、特に宗教色の無い、そして檀家のいない、もっぱら平和祈願のお寺であり、毎年7月に全戦没者慰霊法要が行なわれています。


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入来院さんのメールには、『私は藤原正彦(国家の品格の著者)の母、ていの後輩でして、おじい様の咲平氏には父もお世話になっています。』とあります。藤原咲平氏にお世話になったという入来院貞子さんのお父様こそ、昭和寺の開祖・山崎良順師、その人でした。


入来院家は、鎌倉時代、関東の豪族として、現在の東京・渋谷に城を持ち、また相模の国(現在の神奈川県)に勢力をもっていた渋谷氏が、鎌倉幕府から薩摩国の入来院などの諸郷を与えられて下向し、後に入来院と名乗るようになったのが始まりです。戦国時代を乗り切って薩摩藩を確立した島津義久、義弘(関ヶ原敵中突破などで有名)兄弟の母は、入来院11代重聡(しげとし)の娘でした。


庶流入来院当主で、貞子さんの夫の入来院重朝(しげとも)さんは、共栄火災に勤務されていましたが、子会社の社長も定年になって、1994年(平成6年)に入来に帰って来られました。


重朝さんとともに東京から入来に移り住んだ貞子さんは、一族の先祖の渋谷氏が関東から下向して 750年になるのを機に、町おこしに何かやらねばならないと思います。謡曲を習っていて観世流の人たちを知っていたので、頼めば来てくれるかなあ、と思って企画されたのが『入来薪能』でした。


入来薪能は、1999年(平成11年)に第1回が開催され、昨年で6回を数えました。今年は、一年お休みとなり、その代わり6月10日(土)に、『入来古文書』の訳者で横浜市立大学名誉教授の矢吹晋先生の講演会が開催されます。


山崎良順師のご長男(印度史の第一人者で國學院大學名誉教授の山崎元一氏)は学者の道に進まれました。後継者のいないことを憂いていた良順師の志を入来院さんの三男大圓さんが継ぐことを決意、仏門に入られました。


しかし、大圓さんは実際は善光寺に勤務中で、しかも福満寺という、国宝はあるが檀家の無い寺の住職もやっていらして、片道3時間もかかる昭和寺まではなかなか手が廻りません。


そこで重朝さんが、支援団体『世界平和同願会』の理事長となり、会費を集めてそっくり送ったり、年2回の「同願」を出したり、年1回の全戦没者慰霊祭を行なうなど、貞子さんともども大圓さんの活動を鹿児島の遠方から援助していらっしゃるのです。


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今、日中関係がぎくしゃくしています。そして、戦後生まれである団塊の世代の一斉退職が始まる時代になり、戦争体験を語り継ぐ人たちが段々少なくなりつつあります。そのような中で知った昭和寺のことでした。皆様にも是非知ってもらいたいと思い、入来院さんのご承諾を得てレポートを書きました。


霧ケ峰は、初夏から秋にかけて、色とりどりの高山植物で埋めつくされてとても素晴らしいそうですね。昭和寺は、強清水(こわしみず)駐車場や霧ケ峰ホテルの近くにあります。もし、霧ケ峰に行かれてお時間があるようでしたら、是非立ち寄ってみて下さい。


【参考】
(1)昭和寺については、下記サイトに写真もアップされていますので、ご覧下さい。
■昭和寺のホームページ(入来院貞子さん作成)
   → http://www.geocities.jp/hfwyt078/index.htm
■霧ヶ峰の昭和寺(大阪万博のラオス館)
→ http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn013/showwade/showwade.html
■ラオス館昭和寺1
   → http://www5.plala.or.jp/GTM/raosutuiti.htm
(2)入来薪能と入来麓の町並みについては、下記の旅行記があります。
■入来薪能
   → http://washimo-web.jp/Trip/Takiginou/takiginou.htm
■玉石垣の武家屋敷群
   → http://www.washimo.jp/Trip/Iriki/iriki.htm
(3)下記アドレスに、入来花水木会のホームページがあります。
   → http://www.geocities.jp/hfwyt078/



2006.05.24
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