レポート | ・推敲(組み立て)と即吟性 |
− 推敲(組み立て)と即吟性 −
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『閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声』は、学校の教科書にも出てくる松尾芭蕉の有名な句である。元禄2年5月27日(1689年7月13日)に、山形市にある立石寺(りっしゃくじ、通称を山寺)に参詣した際に詠んだ句で奥の細道(元禄15年(1702年)刊)に収録されている。 俳聖・松尾芭蕉のことだから、閃(ひらめ)いた瞬間、さっと出来あがった句だとばかり思っていたのだが、実は、推敲に推敲を重ね、初案から再案を経てやっと成案が得られたのはかなり後のことだったことを知った。 俳聖においてさえそうだから、いわんや凡人においておや、ということになる。一方、即吟性をもってよしとする俳人もいることを知り、『推敲(組み立て)と即吟性』について考える機会があったので、書いてみた。 1. 推敲(組み立て) 〜 飯島晴子 小寒(しょうかん)の日(1月6日頃)から立春の前日・節分(2月3日頃)までの約30日間が最も寒さが厳しいとされ、暦の上ではこの期間のことを『寒』(かん)いい、寒中の晴天の日、いわゆる寒晴(かんばれ)の日には、空気は乾燥して、はるかまで冴え冴えと澄み渡る。寒晴には冬晴(ふゆばれ)よりも低い温度感の響きが感じられる。 寒晴や下校うながすアヴェマリア ワシモ 寒晴の紙垂振る音や地鎮祭 寒晴や発射整ふ内之浦 さて『寒晴』は少なくとも合本俳句歳時記第三版(角川書店編)には載っていない。インターネットで調べてみると、飯島晴子(1921〜2000年)の次の句をあげて、清水哲男が『増殖する俳句歳時記』に、長峰竹芳が現代俳句コラム(現代俳句協会)に解説を書いている(1)(2)。 寒晴やあはれ舞妓の背の高き 飯島晴子 『寒晴』は、季語のようであるが、これは作者(飯島晴子)の発明であり、歳時記での季語は『寒』である。実は、この句の『中七下五』は秋にできたものだと作者が作句過程の種明かしをしている。 秋に大阪のホテルで開かれた出版記念会に祇園から手伝いに来ていたすらりと背の高い現代娘の舞妓ぶりを見て『あはれ』と反応したわけである(1) が、のちに『寒晴』という透明な気分を持ち込んで合成した、俳句の言葉の取り合わせにとことんこだわった作品である。 現実の情景描写でなく、組み立てた言葉の響きによってリアリティを成立させていく、いささか強引とも思える晴子俳句の一つの典型で、張りのある、明るい気分が見事に演出されている(2)。 飯島晴子について『天地わたるブログ』というブログに以下のような解説がある。 飯島晴子は孤高の俳人である。吟行といってもひとり静かに行く。大勢とがやがややっていい俳句ができるものかと発言もしていた。ひとり吟行のあと自分の工房のなかでもがいてあがいて作品に仕立て上げる孤高をよしとした(3)。 あるいは、フリー百科事典・ウィキペディアには、次のようにある。 代表的な句に「泉の底に一本の匙夏了る」「天網は冬の菫の匂かな」「螢の夜老い放題に老いんとす」「寒晴やあはれ舞妓の背の高き」などがある。吟行による写生を基本としつつ、言葉によって構築される緊張度の高い作品世界を展開、句集ごとに新たな境地を見せた。また従来、女性俳人の評論が情緒的とされていた中にあって、明晰・論理的な俳句評論を発表、後続の女性俳人に大きな影響を与えた(4)。 2. 即吟性 〜 宮部鱒太 平成最後の元旦(平成31年元旦)、今年も『歳旦三つ物』に挑戦してみた。 紅白の具の色うれし雑煮かな ワシモ 久方に取り出す歌がるた 草餅の色香を愛でる客ありて さて、『かるた(歌留多)』について調べていて、合本俳句歳時記第三版(角川書店編)で、ウンスンカルタを詠った句が目についた。 うんすん歌留多一枚足りぬ蔵の中 宮部鱒太 『ウンスンカルタ』は16世紀半ばにポルトガルから伝来した南蛮カルタを源流とするかるたで江戸時代に日本中で大流行した。『うんともすんとも言わない』という言葉は、ウンスンかるた遊びで行き詰った様子に由来するといわれている。 この『ウンスンカルタ』が日本中でただ一ヶ所、なぜか熊本県人吉市に残り、今に伝えられているのだ。上の句の作者はきっと熊本にゆかりのある人に違いないと思い、調べてみると果たして次のようにあった。やはり、熊本ゆかりの俳人だった。 宮部鱒太(みやべますた)(1917〜2012年) 熊本県生まれ。幕末の国学者、兵法家・宮部鼎蔵(みやべていぞう、池田屋で 会合中に新選組に襲撃され自刃)の曾孫。応召し1946年帰還後、京都の 「京鹿子」を中心に活躍。熊本で1963年に「夜行」を創刊。 『かささぎの旗』というブログに、『九州俳句』誌 166号より引用した『宮部鱒太氏を悼む』と題する野田遊三の記事が記載されている(5)。 『九州俳句』創刊当時からの同人宮部鱒太氏が去る一月亡くなられた。毎年桜の頃になると決って次の鱒太句が思い出される。 戦友は別のさくらを見ていたり 若くして俳句と出会った青年鱒太は、戦時中中支戦線に従軍下の二十代半ば、熊本出身の大尉らと『戦場の句会』を催すのが唯一の慰みであったという。戦況は熾烈を加え、あまたの戦友が散ってゆく。 そうした状況がこの句の『別のさくらを見ていたり』に哀しく込められている。熊本の生んだ幕末の国学者・兵法家宮部鼎蔵の曾孫として生を享けた氏は若くして剣の道に魅せられ京都武専に学び、『剣と句』を二刀流として出立する。 鱒太俳句の句作の最大の特徴である即吟性はこの辺の事情によるもので、それはちょうど武蔵の『五輪書』にいう、間合において最上の拍子を把え間髪を相入れず攻める速攻術としての、いわゆる『一拍子(ひとつひょうし)』の術を彷彿させる(4)。 例えば、野焼を詠おうと阿蘇の大観峰へ吟行に出かけた折、映画ロケ中の老農夫役の宇野重吉と野焼のけむりの中で一瞬すれ違う。その瞬間(とき)の即吟、 野火の匂いの宇野重吉とすれちがう など、その最たるものであろう。即吟のもつリアリティの確かさ。あるいは俳句大会で長崎へ行ったときの即吟 ながさきの百日紅は破片なり 俳句仲間と水神祭へ行ったときの句 水神祭いちばん恐いお面買う 親友の訃報に接したときの句 自転車に空気を入れておくやみに いま改めて鱒太俳句の全容をふり返ってみてその創作の変幻自在さに驚かされる。その変幻ぶりにおいては、非定型も無季俳句も時にこれを是とする、そんな大様さゆえに、煩悶や郷愁あるいは俳壇の混沌や名声などどこ吹く風の悠然たる鱒太俳句独自の風狂の世界が生まれたのである(5)。 部屋中に芒を活けて笑うかな 鱒太 雪の火山にまむかい男ばかりの墓 じゅうたんを走るお通夜のにぎりめし 百歳の祝いの餅はおそろしか 花大根帰るところがあるような (文中敬称略) 【参考にしたサイト】 (1) 検索エンジン『増殖する俳句歳時記』検索: 飯島晴子 (2) 寒晴やあはれ舞妓の背の高き - 現代俳句コラム - 現代俳句協会 (3) 飯島晴子の絶叫 | 天地わたるブログ (4) 飯島晴子 - Wikipedia (5) 宮部鱒太氏を悼む 野田遊三: かささぎの旗 【備考】 『ウンスンカルタ』については、下記のページが参考になます。 旅行記 ・ウンスンカルタ − 人吉・球磨を訪ねて(5) → https://washimo-web.jp/Trip/Unsun/unsun.htm |
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2019.01.23 | ||||
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