レポート | ・里国民学校学童疎開記念の碑 |
− 里国民学校学童疎開記念の碑 −
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古希を迎えた1949年(昭和24年)生まれの、いわゆる団塊の世代である著者にも『学童疎開』(がくどうそかい)の経験はありません。ブリタニカ国際大百科事典に、『学童疎開』について以下のように解説があります。 〜第2次世界大戦の末期に東京、大阪、名古屋、横浜など大都市の国民学校初等科児童を郊外の農山村に移動させ、戦火を避けさせたことをいう。1944年(昭和19年)8月から学校単位の集団疎開が実施され、45年の疎開児童数は約 45万人に達した。 疎開先では公会堂、社寺、旅館などを宿舎とし、そこで授業も行われ、疎開地の学校もこれに協力したが、終戦直前の食糧難、物資欠乏のため、付添いの教師や寮母などはその調達に追われ、正常な教育はほとんど行われなかった。〜 『学童疎開とは、懐かしい言葉ですが、もう今では余り知る人も少なくなっているでしょう。私は幸いに学童疎開ではなく、母方の伯父の鉱山近くの愛知県・新城に疎開しましたが結構、名古屋襲撃の煽りで空襲には遭いました。思いだしたくもないことですが・・・』というお便りを大分県にお住いの女性の方から頂きました。 太平洋戦争が終結したのが1945年(昭和20年)の8月15日ですから、2019年の今年は『戦後74年』になり、『学童疎開』という言葉を耳にすることも、目にすることもなくなりました。 つまり、今では死語に近くなっているわけですが、ところが、著者の自宅から車で3〜4分のところにある山崎郷地頭仮屋跡(鹿児島県薩摩郡さつま町山崎)に『里国民学校学童疎開記念の碑』なるものが建っていることを今になって知ったのです。 ここで『里』とは、薩摩半島の約38km西方の東シナ海に浮かぶ甑島列島の上甑にあった里村(現薩摩川内市里町)のことです。沖縄戦が始まり、次にアメリカ軍の種子島、屋久島、甑島への上陸が必至と考えられるようになると、1945年4月、種子島、屋久島、甑島の児童に疎開の指示が出されたのでした。 種子島の西之表市では 2,838名が菱刈郡(現伊佐市など)へ、中種子町では 1,698名が薩摩郡(現薩摩川内市など)へ、南種子町では 1,261名が姶良郡(現姶良市や湧水町など)へ学童疎開しました。『里国民学校学童疎開記念の碑』の建立の由来に次のようにあります。 〜第二次世界大戦は苛烈を極め終極刻々と迫る。昭和二十年五月三十日、文部省指令により里国民学校学童四百五十名が旧山崎村の各地に分散疎開す。以来八月二十一日引揚の日まで八十余日寄宿の先々で人々の暖かい芳情に浴す。 三十年の歳月は流れて昭和五十一年八月二十一日宮之城町を姉町として姉妹町村提携の盟約を結ぶに当りここ恩顧の地に記念の碑を建立して永久に感謝の意を捧げる。昭和五十一年十二月吉日 里村長 日笠山 進〜
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2019.02.20 | ||||
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