レポート  ・草城忌と桂信子   
− 草城忌と桂信子 −
昭和9年(1934年)京都東山に実在するミヤコホテルを舞台にした仮想の新婚初夜を詠だエロチシズム漂う連作『ミヤコホテル』10句を発表したため、高浜虚子の逆鱗に触れ、『ホトトギス』同人を除名された日野草城(ひのそうじょう)。
 
この連作10句は、俳壇では西東三鬼などが一定の評価をしたものの、中村草田男や久保田万太郎が非難。しかし、文壇にいた室生犀星が積極的に評価すると、これをきっかけに『ミヤコホテル論争』と言われる論戦に発展しました。
 
以後草城は新興俳句を推し進めますが、治安維持法によって弾圧されます。戦後は一転して静謐な句を作りましたが、10年間の病臥の後昭和31年(1956年)56歳にて没。草城忌(そうじょうき、1月29日)は冬の季語になっています。
 
  この冬の意外なぬくさ草城忌   桂信子
  ばら色のままに富士凍て草城忌  西東三鬼
  佗助の群がる日なり草城忌    石田波郷
  全集の濃き藍色や草城忌     桂信子
  女患部屋にをとこの声や草城忌  石田波郷
  東京に桂信子や草城忌      草間時彦
  水より淡き早春の空草城忌    楠本憲吉
  無造作に白きマフラー草城忌   岩井秀子
  絞り出す絵具はブルー草城忌   松倉ゆずる
  夫の忌の白足袋濡るる傘の中   日野晏子
 
最後の句の作者、日野晏子(やすこ)は草城の妻。戦後、病臥の夫をなぐさめるため句作を始めたといわれます。夫の闘病生活をたすけながら口述筆記、雑誌編集事務につとめ、昭和62年(1987年)81歳で死去しています。
 
さて、1934年に日野草城の『ミヤコ・ホテル』連作が発表されると、これに感銘を受け、翌年より句作を開始した女性がいました。桂信子です。1914年、大阪市生まれ。大阪府立大手前高等女学校卒業。『ミヤコ・ホテル』が発表されたとき20歳の若さということですから驚きです。
 
最初はどこにも投句していなかったですが、1938年草城主宰の『旗艦』を知り投句。26歳の1939年桂七十七郎と結婚しますが、2年後に夫が喘息発作のため急逝、以後会社員として自活します。昭和20年(1945年)空襲によって家が全焼した際には句稿だけをもって避難したそうです。その句稿から自身の第一句集『月光抄』ができます。
 
桂信子という俳人を知ったのは、今から13年前、NHK通信講座『俳句入門』を受講し始めたときのことでした。テキストに俳人・古賀まり子氏(1924年〜2014年)が次の句をあげて解説していたのです。引用させてもらいます。
 
  いなびかりひとと逢(あ)いきし四肢(しし)てらす  桂 信子
 
季語は「稲光」(秋)。句意は平明そのままですが、この句は想像させる部分を多く含んでいます。闇を一瞬切り裂いて走ってくる稲光が、高ぶりのまだ覚めない人を照らしだしています。
 
「身を照らす」ではなく、手足にスポットライトを当てているところが見事です。孤独と愛情、冷やかさと燃えるものとの出合いがこの句を盛り上げています。鑑賞は読者の自由ですが、寡婦36歳の作です。『女身』所収。(以上、NHK俳句講座―俳句入門―『四季の作品鑑賞』(平成16年4月1日改訂17刷発行)より引用)。
 
桂信子は、1970年、56歳で定年退職し「草苑」を創刊、主宰。第1回現代俳句協会賞受賞、現代俳句女流賞受賞。第26回蛇笏賞受賞。第11回現代俳句協会大賞受賞。毎日芸術賞受賞。2004年12月に逝去(享年90)。現代俳句協会副会長を永く努めました。
 
2010年、財団法人柿衞文庫(かきもりぶんこ)によって桂信子賞が創設され、俳句に功績のあった女性俳人に授与されています。第1回(2009年)受賞は黒田杏子氏。なお、柿衞文庫は、兵庫県伊丹市にある俳諧コレクションを所蔵・展示する兵庫県の登録博物館で、1984年開館。運営は、公益財団法人柿衞文庫。
 
桂信子の代表句に
 
  ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ (『月光抄』)
  ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜   (『月光抄』)
  ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  (『女身』)
  窓の雪女体にて湯をあふれしむ    (『女身』
  ごはん粒よく噛んでゐて桜咲く    (『草樹』)
  たてよこに富士伸びてゐる夏野かな  (『樹影』)
 
などがあります。新興俳句の流れに属しながらも、平明で情感のある句を作りました。第一句集『月光抄』は結婚から新婚生活、空襲による自宅焼失、夫の急逝まで激動の生活の中での哀歓を主題としつつ、やわらかさへの志向を主調としています。
 
その次の『女身』までは、草城に学んだ句風で自身の肉体にこだわったエロチシズム漂う作品を多く含みますが、戦後、山口誓子の『激浪』に傾倒して以降は、情熱を抑えて即物的・硬質な句を詠むことも学びました。
 
『女身』を出すころには社会性俳句全盛となり、桂のような私性の強い主情的な句風は逆境に置かれましたが、時代におもねらず独自の道を進み、第4句集『新緑』以降の句集では自然をさりげなく視野においた句を多く収めるなど平明自在な作風を深めていきました。(以上、桂信子 − Wikipedia より)。
  
【お薦めサイト】
  ・ミヤコホテル論争
    → https://washimo-web.jp/Report/Mag-MiyakoHotel.htm
 


2019.03.13
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