レポート  ・ミヤコホテル論争   
− ミヤコホテル論争 −
今年(2019年)も3月8日(金)〜17日(日)『京都・東山花灯路』(ひがしやまはなとうろ)が開催されます。京都の東山界隈の路地、寺、園庭に2,500 を超える竹の灯篭が配置され幻想的な雰囲気に包まれるそうです。訪ねてみたいなと毎年思いながら果たせていません。せめて俳句でもと、駄作ながら詠んでみました。
 
  春ともし宿に借りたる夫婦下駄 ワシモ
 
『京都』『春ともし』といえば、俳句における『ミヤコホテル論争』を思い起こします。昭和9年(1934年)日野草城(ひのそうじょう)が『俳句研究』4月号に、新婚初夜をモチーフとしたエロチシズム濃厚な連作『ミヤコホテル』10句を発表します。
 
  けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
  夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻と居りぬ
  枕辺の春の灯は妻が消し
  をみなとはかかるものかも春の闇   ※(注)をみな=おんな(女)
  薔薇にほふはじめての夜のしらみつつ
  妻の額に春の曙はやかりき
  麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
  湯あがりの素顔したしく春の昼
  永き日や相触れし手はふれしまま
  失ひしものを憶へリ花曇
 
この連作は京都東山に実在するミヤコホテルを舞台にしていますが、草城自身は新婚旅行などはしておらず完全にフィクションの句でした。当時は、フィクションの句やエロチシズムな句への理解が乏しく、客観写生・花鳥諷詠を理念とする高浜虚子の逆鱗に触れ、昭和11年(1936年)草城36歳のとき『ホトトギス』同人を除名されます。
 
俳壇では西東三鬼などは一定の評価をしたものの中村草田男や久保田万太郎が非難。しかし文壇にいた室生犀星は『俳句は老人文学ではない』(『俳句研究』1935年2月号)という文章を発表し、『ミヤコホテル』が俳句の新しい局面を開いたとして積極的に評価しました。
 
この犀星の賛辞をきっかけにして中村草田男が『新潮』誌上で『ミヤコホテル』を批判する文章を発表、これに草城自身が反駁し『ミヤコホテル論争』と言われる論戦に発展しました。
 
草城は明治34年(1901年)年、東京生まれ。大正13年(1923年)京都帝国大学法学部卒業。保険会社の支局長まで勤め、昭和29年(1954年)退職。晩年は病臥のなか、句作に専念。戦前は『旗艦』を、戦後は『青玄』を創刊・主宰し一転して静謐な句を作りました。昭和31年(1956年)56歳にて没。草城忌(1月29日)は冬の季語になっています。
  
【お薦めサイト】
  ・草城忌と桂信子
    → https://washimo-web.jp/Report/Mag-Sojyoki.htm
 


2019.03.06
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